翻刻
【右丁】
《振り仮名:夕日の岡|ゆふひ をか》 明王院(みやうわうゐん)の後(うしろ)の方 西(にし)に向(むか)へる岡(をか)をいへり古(いにし)へは楓樹(ふうしゆ)数(す)
株(ちゆう)梢(こすゑ)を交(まし)へ晩秋(はんしう)の頃(ころ)は紅葉(もみち)夕日(ゆふひ)に映(えい)し奇観(きくわん)たりしとなりされと
今(いま)は楓樹(ふうしゆ)少(すくな)く只(たゝ)名(な)のみを存(そん)せり
《振り仮名:太鼓𣘺|たいこはし》 同所 坂下(さかした)の小川(をかは)に架(わた)せり《割書:目黒川(めくろかは)|といへり》柱(はしら)を用(もち)ひす両岸(りやうかん)より石(いし)を
畳(たゝ)み出(いた)して𣘺(はし)とす故(ゆゑ)に横面(わうめん)より是(これ)を望(のそ)めは大鼓(たいこ)の胴(とう)に髣髴(さもに)
たり故(ゆゑ)に世俗(せそく)しか号(なつ)く享保(きやうほ)の末(すゑ)木食上人(もくしき )《割書:心誉(しんよ)を|いふ欤(か)》是(これ)を制(せい)すると
なり
靈雲山(れいうんさん)蟠龍寺(はんりうし) 安養院(あんやうゐん)と号(かう)す同所𣘺(はし)より一町はかり西南(にしみなみ)道(みち)
より右にあり浄土律(しやうとりつ)にして縁山(えむさん)に属(そく)せり本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は
慈覚大師(しかくたいし)の作(さく)なり開山(かいさん)は吟蓮社龍誉一雨靈雲和尚(きんれんしやりうよいちうれいうんおしやう)と号(かう)す
《割書:上野國(かうつけのくに)新田(につた)の大光院(たいくわうゐん)より退隱(たいいん) |の後(のち)當寺(たうし)草創(さう〳〵)ありしとなり》境内(けいたい)に丈六(ちやうろく)の阿弥陀如来(あみたによらい)の銅像(とうさう)あり
又 後(うしろ)の方(かた)山崖(やまきし)の下に岩窟(かんくつ)ありて中(うち)に辨財天(へんさいてん)を安置(あんち)す《割書:弘法大師(こうはふたいし)の|作(さく)なりといふ》
本宮(ほんくう)は門(もん)の向(むかふ)にあり惣門(そうもん)の額(かく)に安養院(あんやうゐん)と書(しよ)せしは黄檗(わうはく)獨湛(とくたん)
【左丁】
和尚(おしやう)の筆(ふて)なり
臥龍山(くわりうさん)安養院(あんやうゐん) 能仁寺(のうにんし)と号(かう)す同所にあり天台宗(てんたいしう)にして瀧泉(りうせん)
寺(し)に属(そく)せり本尊(ほんそん)涅槃釋迦像(ねはんしやかさう)は空誉上人(くうよ )の作(さく)なり當寺(たうし)は
法華讀誦(ほつけとくしゆ)称名念佛(しようみやうねんふつ)の道塲(たうちやう)なり
蛸藥師如来(たこやくしによらい) 同所 町屋(まちや)の巽(たつみ)の隅(すみ)にあり天台宗(てんたいしう)成就院(しやうしゆゐん)境内(けいたい)に安(あん)す
本尊(ほんそん)藥師如来(やくしによらい)は慈覚大師(しかくたいし)の作(さく)なり世俗(せそく)傳(つた)へ云 此(この)本尊(ほんそん)に祈願(きくわん)
ある者(もの)は蛸(たこ)を断(たち)て是(これ)を念(ねん)するに果(はた)して利益(りやく)ありとて繪馬(ゑま)にも
蛸(たこ)の形(かたち)を畵(ゑか)きて捧(さゝ)く
目黑不動堂(めくろふとうたう) 同所の西(にし)百歩(ひやくほ)のあまりにあり泰叡山(たいえいさん)瀧泉寺(りうせんし)と号(かう)
す天台宗(てんたいしう)にして東叡山(とうえいさん)に属(そく)せり開山(かいさん)は慈覚大師(しかくたいし)中興(ちゆうこう)は
慈海僧正(しかいそうしやう)なり
本堂(ほんたう)不動明王(ふとうみやうわう)慈覚大師作(しかくたいしのさく)脇士(けふし)は八大童子(はちたいとうし)なり
本殿額(ほんてんかく)《割書:泰叡山|》後西院(こさいゐん)御筆 樓門額(ろうもんのかく)《割書:泰叡山|》後水尾帝(こみをてい)御筆
現代語訳
【右丁】
夕日の岡 明王院の後ろの方、西に向かう岡をいう。古くは楓の木が数多くあり、枝を交わし、晩秋の頃は紅葉が夕日に映えて素晴らしい景観であったという。しかし今は楓の木は少なく、ただ名前だけが残っている。
太鼓橋 同じ場所の坂下の小川に架けられている(目黒川という)。柱を使わず、両岸から石を積み重ねて橋としている。そのため横から見ると大鼓の胴に似ているので、世間ではこのように呼んでいる。享保の末年に木食上人(心誉という人か)がこれを造ったという。
霊雲山蟠龍寺 安養院と号する。同じ場所の橋から一町ほど西南の道より右にある。浄土律宗で縁山に属する。本尊の阿弥陀如来は慈覚大師の作である。開山は吟蓮社龍誉一雨霊雲和尚と号する(上野国新田の大光院から退隠の後、当寺を草創したという)。境内に丈六の阿弥陀如来の銅像がある。また後ろの方の山崖の下に岩窟があり、中に弁財天を安置している(弘法大師の作という)。本宮は門の向かいにある。惣門の額に「安養院」と書いたのは黄檗宗の独湛
【左丁】
和尚の筆である。
臥龍山安養院 能仁寺と号する。同じ場所にある。天台宗で瀧泉寺に属する。本尊の涅槃釈迦像は空誉上人の作である。当寺は法華読誦と称名念仏の道場である。
蛸薬師如来 同じ場所の町屋の巽の隅にある。天台宗成就院の境内に安置されている。本尊の薬師如来は慈覚大師の作である。世間で伝えられるところでは、この本尊に祈願する者は蛸を断って念じると、必ず利益があるといって、絵馬にも蛸の形を描いて捧げる。
目黒不動堂 同じ場所の西百歩余りにある。泰叡山瀧泉寺と号する。天台宗で東叡山に属する。開山は慈覚大師、中興は慈海僧正である。
本堂の不動明王は慈覚大師作、脇士は八大童子である。
本殿の額(泰叡山)は後西院御筆。楼門の額(泰叡山)は後水尾帝御筆。
英語訳
【Right page】
Yūhi no Oka (Evening Sun Hill): Refers to a hill behind Myōō-in Temple facing west. In ancient times, there were many maple trees with intertwining branches, and in late autumn the autumn leaves reflecting the evening sun created a magnificent view. However, now there are few maple trees, and only the name remains.
Taiko Bridge (Drum Bridge): Built over a small river (called Meguro River) at the bottom of the slope in the same area. It uses no pillars, but is constructed by piling stones from both banks. When viewed from the side, it resembles the body of a large drum, which is why people call it by this name. It is said to have been built by the monk Mokujiki Shōnin (possibly called Shin'yo) at the end of the Kyōhō period.
Reiun-zan Hanryū-ji Temple: Also called Anyō-in. Located to the right of the road about one chō southwest from the bridge in the same area. It belongs to the Jōdo Ritsu sect under Enzan. The principal image of Amida Nyorai was made by Jikaku Daishi. The founding priest was called Ginren-sha Ryūyo Ichiu Reiun Oshō (said to have founded this temple after retiring from Taikō-in in Nitta, Kōzuke Province). There is a bronze statue of Amida Nyorai of jōroku size within the temple grounds. Also, behind the temple, there is a cave under a mountain cliff with Benzaiten enshrined inside (said to be made by Kōbō Daishi). The main shrine is located opposite the gate. The inscription "Anyō-in" on the main gate was written by Ōbaku sect monk Dokutan
【Left page】
Oshō.
Garyū-zan Anyō-in: Also called Nōnin-ji. Located in the same area. It belongs to the Tendai sect under Ryūsen-ji. The principal image of Nehan Shaka was made by Kūyo Shōnin. This temple is a dōjō for Lotus Sutra recitation and nenbutsu chanting.
Tako Yakushi Nyorai (Octopus Medicine Buddha): Located at the southeastern corner of the town houses in the same area. Enshrined within the grounds of Tendai sect Jōju-in Temple. The principal image of Yakushi Nyorai was made by Jikaku Daishi. According to popular tradition, those who pray to this principal image abstain from eating octopus and pray earnestly, and they surely receive benefits, so they offer votive tablets (ema) painted with octopus shapes.
Meguro Fudō-dō: Located about one hundred steps west of the same area. Called Taiei-zan Ryūsen-ji. It belongs to the Tendai sect under Tōei-zan. The founding priest was Jikaku Daishi, and the restorer was Jikai Sōjō.
The Fudō Myōō in the main hall was made by Jikaku Daishi, with the Eight Great Boy Attendants as attendant figures.
The inscription on the main hall (Taiei-zan) was written by Retired Emperor Gosai-in. The inscription on the tower gate (Taiei-zan) was written by Emperor Gomizuno-o.