翻刻
【見返し】
【左丁】
河崎(かはさき) 六郷渡口(ろくかうわたしくち)より向(むか)ふの方(かた)にあり東海道(とうかいう)官驛(くわんえき)の一つにして
行程(かうてい)品川(しなかはた)より二里半/驛舎(えきしや)数百軒(すひやくけん)整々(せい〳〵)として両側(りやうかは)に聯(つらな)る
《割書:小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の所領役帳(しよりやうやくちやう)に雉太新三郎(きしたしんさふらう)及(およ)び伊勢兵庫頭(いせへうこのかみ)間宮豊前守(まみやふせんのかみ)等(とう)の|所領(しよりやう)の中(うち)に此(この)河崎(かはさき)の地名(ちめい)あり又/同書(とうしよ)大珠寺分(だいしゅしふん)十九/貫(くわん)四百文の内(うち)五百文は|川崎(かはさき)に伏(ふく)すとあり》
平安記行 《割書:河崎(かはさき)といふ海近(うみちか)き宿(しゆく)にて使(つかひ)なとあとにやりてこゝにてしはし|》
《割書:やすらへは長光寺(ちやうくわうし)日耀(にちよう)上人くたもの抔(なと)僧(そう)にもたせて送(おく)り給ひぬ|馬(うま)むけんと立(たち)ものするに洲崎(すさき)にかさゝきのたてりけれは》
朝朗霞うなかす河崎に浪とみる迄たてる白鷺 持資
《割書:いさこといふ所にて》
かもめゐるいさこの里を来てみれは遊に通ふ沖津浦風 仝
《割書:按(あんする)に長光寺(ちやうくわうし)何(いつ)れなりや今(いま)しるへからす恐(おそ)らくは廃寺(はいし)となりしならん歟(か)砂子(いさこ)といふは|此(この)驛中(えきちゆう)の小/地名(ちめい)にして今(いま)も久根崎町(くねさきまち)新宿(しんしゆく)砂子町/小土呂町(ことろまち)等(とう)の名(な)あり》
河崎庄司次郎高重(かはさきしやうししらうたかしけの)宅地(たくち) 其(その)舊地(きうち)今(いま)しるへからす相傳(あひつた)ふ高重(たかしけ)昔(むかし)渋(しふ)
谷(や)に住(ちゆう)す後(のち)違論(ゐろん)の事(こと)ありて此地(このち)へ移(うつ)り住(すむ)となり又(また)旧地(きうち)堀内(ほりのうち)に
ありし山王(さんわう)の祠(やしろ)をも此(この)河崎(かはさき)に遷(うつ)すといへり
現代語訳
【見返し】
【左丁】
川崎 六郷の渡し口から向こう側にあり、東海道の公式宿場の一つである。
行程は品川から二里半。宿場の家屋数百軒が整然と道の両側に連なっている。
《小さな文字:小田原北条家の所領役帳に、雉太新三郎および伊勢兵庫頭、間宮豊前守等の所領の中にこの川崎の地名がある。また同書の大珠寺分十九貫四百文のうち五百文は川崎に属するとある》
平安記行 《小さな文字:川崎という海に近い宿場で、使者などを後に送ってここでしばし》
《小さな文字:休息していると、長光寺の日耀上人が食べ物などを僧に持たせて送ってくださった。馬を迎えようと立ち上がったところ、洲崎に白鷺が立っていたので》
朝の霞が海面を覆う川崎で、波かと見えるほど立っている白鷺よ 持資
《小さな文字:砂子という所で》
かもめがいる砂子の里を来て見ると、遊びに通う沖の浦風よ 同じく
《小さな文字:考えるに、長光寺がどこにあったかは現在不明である。おそらく廃寺となったのであろうか。砂子というのはこの宿場内の小地名で、現在も久根崎町、新宿、砂子町、小土呂町等の名前がある》
川崎庄司次郎高重の屋敷跡 その旧地は現在不明である。伝承によると、高重は昔渋谷に住んでいたが、後に争論があってこの地へ移り住んだという。また旧地堀内にあった山王の祠もこの川崎に移したという。