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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之17 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之17 - ページ 26

ページ: 26

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【右丁】  厭(いと)ひ丹州(たんしう)島村城(しまむらのしろ)に移(うつ)り住(ちゆう)し又同国 峯山城(みねやまのしろ)に移(うつ)るといへとも遂(つゐ)に敵(てき)の  為(ため)に生害(しやうかい)す《割書:長子(ちやうし)久頼(ひさより)をよひ久友(ひさとも)|続(つゝひ)て峯山(みねやま)に住(ちゆう)せり》其後(そののち)国民(こくみん)当院(たうゐん)に乱入(らんにう)し遂(つゐ)に破壊(はゑ)にをよひ  しを慶長(けいちやう)の頃(ころ)頼専坊(らいせんはう)《割書:久義(ひさよし)の|舎弟》今(いま)の地(ち)に遷(うつ)して寺院(しゐん)を再興(さいこう)し真知法印(しんちほふゐん)を  以(もつ)て中興開山(ちゆうこうかいさん)とす又(また)寛永(くはんえい)二十年の春(はる)  大樹(たいしゆ)   御放鷹(こはうよう)のみきり立(たち)  よらせ給ひ辱(かたしけなく)も当院(たうゐん)の来由(らいゆ)を聞(きこ)し召(めさ)れ寺領(しれう)等(とう)を附(ふ)せらる  不動堂(ふとうたう)《割書:本堂右の方にあり本尊 不動明王(ふとうみやうわう)は弘法大師(こうほふたいし)の作(さく)にして覚鑁上人(かくはんしやうにん)根来伝法院(ねころてんほふゐん)草創(さう〳〵)ありし頃(ころ)|護摩堂(こまたう)の本尊(ほんそん)に安置(あんち)ありしを天正(てんしやう)三年 故(ゆへ)ありて花洛(みやこ)歌中山(うたのなかやま)清閑寺(せいかんし)に移(うつ)し奉(たてまつ)り又 寛保(くはんほ)元年》  《割書:不思儀(ふしき)の霊感(れいかん)あるに仍(よつ)て|終(つゐ)に当寺(たうし)に安置(あんち)せしとなり》  天満宮祠(てんまんくう  )《割書:不動堂(ふとうたう)の後(うしろ)の方 小(すこし)き丘(をか)の上(うへ)なる古松(こしよう)の|下(もと)にあり来由(らいゆ)は寺記(しき)の中(うち)につまひらかなり》 正一位鷲大明神社(しやういちゐわしたいみやうしん  ) 花亦村(はなまたむら)にあり此地(このち)の産土神(うふすな)とす祭神(まつるかみ)詳(つまひらか)ならす本地(ほんち)は釈(しや)  迦如来(かによらい)にして鷲(わし)に乗(しやう)する体相(ていさう)なり別当(へつたう)は真言宗(しんこんしう)にして正覚院(しやうかくゐん)と号(かう)す  毎歳十一月 酉日(とりのひ)を以(もつ)て祭日(さいしつ)とせり縁起(えむきに)曰(いはく)本地(ほんち)釈迦牟尼如来(しやかむにによらい)は新羅三郎(しんらさふらう)  義光(よしみつ)崇教(そうきやう)の霊像(れいさう)にして天喜(てんき)の昔(むかし)奥州(あうしう)安倍貞任(あへのさたたう)叛逆(ほんきやく)を企(くはたつ)るの時(とき)本尊(ほんそん)の  示現(しけん)によりて其軍(そのいくさ)勝利(しようり)ありし由(よし)を記(しる)せとも其(その)説(せつ)詳(つまひらか)ならす 【左丁】   《割書:按(あんする)に当社 鷲大明神(わしたいみやうしん)は土師大明神(はしたいみやうしん)なるへしはとわの仮名(かな)の転(てん)せしより謬(あやま)り来(きた)れる歟当社を世俗(せそく)浅(あさ)|草観音(くさくはんおん)の奥院(おくのゐん)と称(しよう)す是に因(よつ)てこれを考(かむか)ふるに浅草寺(せんさうし)縁起(えむき)のうちに土師臣中知(はしのおみなかとも)をよひ檜前浜成(ひのくまのはまなり)》   《割書:竹成(たけなり)といへる漁者(きよしや)主従(しゆう〳〵)三人の名(な)を挙(あけ)たり日本紀(にほんき)に垂仁天皇(すいにんてんわう)三十二年 野見宿称(のみのすくね)にはしめて土部臣(はしのおみ)|の姓(せい)を賜(たま)ふとあれはこの中知(なかとも)も其 遠裔(えむえい)なるへし《割書:野見宿称は天穂日命十四世の孫なり古事記に天穂日命は|出雲臣武蔵国造土師の連等か遠祖なりとあり》又 続日本紀(そくにほんき)》   《割書:曰(いはく)檜前舎人直由加麻呂(ひのくまのとねりあたへゆかまろ)といへるはむさしの国(くに)加美郡(かみこほり)の人にして土師姓(はしせい)と祖(そ)を同すとあれは此 浜成(はまなり)竹成(たけなり)も武蔵国(むさしのくに)|の人にして主従(しゆう〳〵)三人ともに姓(せい)は土師(はし)なるへし古事記(こしき)に天菩比命(あまのほひのみこと)の子(こ)に建比良鳥命(たけひらとりのみこと)といへる神(かみ)あり此神(このかみ) は土師姓(はしせい)の祖(そ)》   《割書:なれは彼三人の漁者の輩なと是等の神を崇まつりしものならん歟当社に毎歳十一月酉の日 祭(まつり)あり世に|酉(とり)のまちと云まちは祭(まつり)の略語(りやくご)なり此日(このひ)近郷(きんかう)の農民(のうみん)家鶏(にはとり)を奉納(ほうのう)す翌日(あくるひ)納(おさむ)る所の家鶏(にはとり)をこと〳〵く浅草寺(せんさうし)》   《割書:観音(くわんおん)の堂前(たうせん)に放(はな)つを旧例(きうれい)とすこれ又より処ある歟 猶(なを)後人(こうしん)の考(かんかへ)を待(まつ)のみ》 石浜(いしはま) 今(いま)橋場(はしは)といふ義経記(きけいき)に治承(ちしやう)四年九月十一日《割書:東鑑(あつまかゝみ)に頼朝(よりとも)隅田川(すみたかは)を越(こえ)て武蔵国(むさしのくに)に|入(い)るを十月二日とす九月十一日と記(しる)せしは》  《割書:あやまり|なるへし》右大将(うたいしやう)頼朝卿(よりともきやう)下総国(しもつふさのくに)より武蔵国(むさしのくに)へ打越(うちこえ)給ふとある条下(てうか)に石浜(いしはま)と申(まうす)  処(ところ)は江戸太郎(えとのたらう)か知行所(ちきやうしよ)なりと云云《割書:按(あんする)に同書に江戸太郎重長(えとたらうしけなか)は八箇国(はつかこく)の大福長者(たいふくちやうしや)とあり則(すなはち)|重長(しけなか)は畠山庄司重忠(はたけやましやうししけたゝ)の一族(いちそく)にして其頃 豊島郡(としまこほり)江戸(えと)の地(ち)》  《割書:も一円(いちゑむ)に所領(しよりやう)のうち|なりしと見えたり》其後(そののち)千葉家(ちはけ)の所領(しよりやう)となり代々(よゝ)是(これ)を知行(ちきやう)せしなり《割書:永禄(えいろく)二年|小田原(をたはら)北(ほふ)》  《割書:条家(てふけ)の古文書(こもんしよ)に太田新六郎(おほた     )同 大膳亮(たいせんのすけ)所領(しよりやう)の中(うち)に千束(せんそく)石浜(いしはま)の名(な)を加(くは)へたり又 木内宮内少輔(きうちくないのせういふ)石浜(いしはま)の今津(いまつ)|を領(りやう)し或(あるひ)は会下寺(ゑかてら)の領(りやう)にも附(ふ)するよし記(しる)せり会下寺(ゑかてら)は総泉寺(そうせんし)の事也 木内宮内少輔(きうちくないのせういふ)此地を領(りやう)せしことは 石浜城址(いしはましやうし)の|許(もと)につまひらかなり》 石浜城址(いしはまのしろあと) 其地(そのち)今(いま)さたかならす事跡合考(しせきかつかう)に神明宮(しんめいくう)の北(きた)の方(かた)なりとあり《割書:按(あんする)に|亀戸(かめ[い]と)》  《割書:普門院(ふもんゐん)洪鐘(こうしよう)の銘(めい)隅田川(すみたかは)《振り仮名:鐘ゕ淵|かね  ふち》の事(こと)を挙(あけ)たる文中(ふんちゅう)に普門院(ふもんゐん)古(いにしへ)は隅田川(すみたかは)三胯(みつまた)の城中(しやうちゆう)にありと云云 普門院(ふもんゐん)は|則(すなはち)千葉自胤(ちはよりたね)創立(さうりふ)の梵刹(ほんさつ)にして三胯(みつまた)の地(ち)も又 千葉家(ちはけ)の所領(しよりやう)たりし事は小田原(をたはら)北条家(ほふてうけ)の古文書(こもんしよ)に詳(つまひらか)なり》  《割書:三胯(みつまた)と唱(とな)ふる地は荒川(あらかは)綾瀬川(あやせかは)の下流(かりう)隅田川(すみたかは)に落合(おちあふ)川股(かはまた)の所(ところ)故(ゆへ)にかく名(な)つくるといへり|然(しか)る時(とき)は事跡合考(しせきかつかう)に記(しる)せし如く神明宮(しんめいくう)の北(きた)の方(かた)その城址(しろあと)なるへき歟》鎌倉大草子(かまくらおほさうしに)云(いはく)

現代語訳

【右丁】  (明王院は)丹州島村城を嫌って移り住み、また同国の峯山城に移ったけれども、ついに敵のために殺害された《長子の久頼および久友が続いて峯山に住んだ》。その後、国民が当院に乱入し、ついに破壊されるに至ったが、慶長の頃、頼専坊《久義の弟》が今の地に移して寺院を再興し、真知法印を中興開山とした。また寛永二十年の春、  将軍  が御放鷹の際に立ち寄られ、恐れ多くも当院の由来をお聞きになり、寺領等を与えられた。  不動堂《本堂右の方にある。本尊の不動明王は弘法大師の作で、覚鑁上人が根来伝法院を草創した頃、護摩堂の本尊に安置されていたが、天正三年に故あって京都歌中山清閑寺に移し奉り、また寛保元年》  《不思議な霊感があるため、ついに当寺に安置したという》  天満宮祠《不動堂の後ろ方の小さな丘の上の古松の下にある。由来は寺記の中に詳しい》 正一位鷲大明神社 花亦村にあり、この地の産土神とする。祭神は詳しくないが、本地は釈迦如来で、鷲に乗る姿である。別当は真言宗で正覚院と号する。  毎年十一月の酉の日を祭日とする。縁起によると、本地釈迦牟尼如来は新羅三郎義光が崇拝した霊像で、天喜の昔、奥州で安倍貞任が叛逆を企てた時、本尊の示現によってその軍に勝利があったと記すが、その説は詳しくない。 【左丁】   《考えるに、当社の鷲大明神は土師大明神であろう。「はし」の仮名が転じて誤り伝わったのか。当社を世俗では浅草観音の奥院と称する。これによってこれを考えると、浅草寺縁起の中に土師臣中知および檜前浜成》   《竹成という漁師主従三人の名を挙げている。日本書紀に垂仁天皇三十二年、野見宿禰にはじめて土師臣の姓を賜うとあるから、この中知もその遠い子孫であろう《野見宿禰は天穂日命十四世の孫である。古事記に天穂日命は出雲臣・武蔵国造・土師連等の遠祖とある》。また続日本紀》   《によると、檜前舎人直由加麻呂という者は武蔵国加美郡の人で土師姓と祖を同じくするとあるから、この浜成・竹成も武蔵国の人で、主従三人とも姓は土師であろう。古事記に天菩比命の子に建比良鳥命という神がある。この神は土師姓の祖》   《だから、かの三人の漁師の輩などはこれらの神を崇拝したものであろうか。当社に毎年十一月酉の日に祭りがあり、世に酉の待ちという。待ちは祭りの略語である。この日、近郷の農民が家鶏を奉納する。翌日、納める所の家鶏をことごとく浅草寺》   《観音の堂前に放つのを旧例とする。これもまた由来があるのか。なお後人の考察を待つのみ》 石浜 今は橋場という。義経記に治承四年九月十一日《吾妻鏡に頼朝が隅田川を越えて武蔵国に入るのを十月二日とする。九月十一日と記したのは》  《誤りであろう》右大将頼朝卿が下総国より武蔵国へ打ち越えられたとある条下に、石浜と申す処は江戸太郎の知行所であるという《考えるに、同書に江戸太郎重長は八ヶ国の大福長者とある。すなわち重長は畠山庄司重忠の一族で、その頃豊島郡江戸の地》  《も一円に所領の内であったと見える》。その後、千葉家の所領となり、代々これを知行した《永禄二年小田原北条家の古文書に太田新六郎・同大膳亮所領の中に千束・石浜の名を加えている。また木内宮内少輔が石浜の今津を領し、あるいは会下寺の領にも付するよし記している。会下寺は総泉寺のことである。木内宮内少輔がこの地を領したことは石浜城址のもとに詳しい》 石浜城址 その地は今定かでない。事跡合考に神明宮の北の方とある《考えるに、亀戸》   《普門院の洪鐘の銘文で隅田川《鐘ヶ淵》のことを挙げた文中に、普門院は古くは隅田川三股の城中にあるという。普門院はすなわち千葉自胤創立の梵刹で、三股の地もまた千葉家の所領であったことは小田原北条家の古文書に詳しい》   《三股と唱える地は荒川・綾瀬川の下流が隅田川に落ち合う川股の所だから、このように名付けるという。そうすると事跡合考に記すように神明宮の北の方がその城址であろうか》鎌倉大草子に云く

英語訳

【Right Page】  (Myoo-in) disliked Tanba Province's Shimamura Castle and moved to live there, then moved again to Mineyama Castle in the same province, but was ultimately killed by enemies 《The eldest son Hisayori and Hisatomo subsequently lived at Mineyama》. Afterward, the people violently entered the temple and it was eventually destroyed, but around the Keicho era, Raisen-bo 《younger brother of Hisayoshi》 moved it to the present location and revived the temple, making Shinchi Hoin the restorer and founder. Also, in the spring of Kan'ei 20, the Shogun stopped by during falconry and graciously heard the temple's history, granting it temple lands and other privileges.  Fudo Hall 《Located to the right of the main hall. The principal image of Fudo Myoo is said to be created by Kobo Daishi, and when Saint Kakuban founded Negoro Denpo-in, it was enshrined as the principal image of the Goma Hall, but in Tensho 3 it was moved to Seikan-ji in Utanakayama, Kyoto for certain reasons, and again in Kanpo 1》  《Due to its miraculous spiritual power, it was finally enshrined at this temple》  Tenmangu Shrine 《Located under an old pine tree on a small hill behind the Fudo Hall. Its origins are detailed in the temple records》 Shoichii Washi Daimyojin Shrine: Located in Hanamata Village, it serves as the tutelary deity of this area. The enshrined deity is not clear, but its honji is Shakyamuni Buddha in the form of riding an eagle. The managing temple belongs to the Shingon sect and is called Shogaku-in.  Every year, the day of the Rooster in November is observed as the festival day. According to the origin story, the honji Shakyamuni Tathagata is a sacred image worshipped by Shinra Saburo Yoshimitsu, and during the Tenki period when Abe no Sadato plotted rebellion in Oshu, there was victory in that battle through the manifestation of the principal image, though this account is not detailed. 【Left Page】   《Upon consideration, this shrine's Washi Daimyojin is probably Haji Daimyojin. The kana for "haji" may have changed and been transmitted incorrectly. This shrine is commonly called the inner sanctuary of Asakusa Kannon. Considering this, the Sensoji origin story mentions the names of three people - the fishermen Haji no Omi Nakatomo and Hinokuma no Hamanari》   《and Takenari, master and servants. The Nihon Shoki states that in the 32nd year of Emperor Suinin, Nomi no Sukune was first granted the surname Haji no Omi, so this Nakatomo must also be a distant descendant 《Nomi no Sukune was the 14th generation descendant of Amenohohi no Mikoto. The Kojiki states that Amenohohi no Mikoto was the remote ancestor of the Izumo no Omi, Musashi Kokuso, and Haji no Muraji clans》. Also, the Shoku Nihongi》   《states that Hinokuma no Toneri no Atai Yukamaro was from Kami District in Musashi Province and shared the same ancestor as the Haji surname, so this Hamanari and Takenari were also from Musashi Province, and all three master and servants probably had the Haji surname. In the Kojiki, there is a deity called Takehiratori no Mikoto, child of Amenohohi no Mikoto. This deity is the ancestor of the Haji surname》   《so those three fishermen and their group probably worshipped these deities. This shrine has a festival on the day of the Rooster in November each year, popularly called "Tori no Machi" (Rooster Market). "Machi" is an abbreviation of "matsuri" (festival). On this day, farmers from nearby villages offer domestic fowl. The next day, all the offered fowl are released in front of Sensoji》   《Kannon Hall as an old custom. This too may have origins. We await the consideration of future scholars》 Ishihama: Now called Hashiba. The Yoshitsune-ki records that on September 11th, Jisho 4 《The Azuma Kagami dates Yoritomo's crossing of the Sumida River into Musashi Province as October 2nd. The record of September 11th is》  《probably an error》. Under the section where Right General Yoritomo crossed from Shimosa Province to Musashi Province, it states that the place called Ishihama was the domain of Edo Taro 《Upon consideration, the same work states that Edo Taro Shigenaga was the great wealthy man of eight provinces. Shigenaga was a member of Hatakeyama Shoji Shigetada's clan, and at that time the land of Edo in Toshima District》  《was entirely within his domain》. Later it became the domain of the Chiba family, and they administered it for generations 《In Eiroku 2, ancient documents of the Odawara Hojo family include the names Senzoku and Ishihama among the domains of Ota Shinrokuro and the same Taizen no suke. Also, it records that Kiuchi Kunai no Shoyu governed Imatsu of Ishihama, or it was attached to the domain of Ege-dera. Ege-dera refers to Sosen-ji. The fact that Kiuchi Kunai no Shoyu governed this land is detailed under Ishihama Castle ruins》 Ishihama Castle Ruins: The location is now uncertain. The Shiseki Gokko states it was north of Shinmei-gu 《Upon consideration, at Kameido》   《In the inscription on the great bell of Fumon-in mentioning the Sumida River 《Kanegafuchi》, it states that Fumon-in was anciently located within the castle at Mitsumata on the Sumida River. Fumon-in was a Buddhist temple founded by Chiba Yoritane, and the land of Mitsumata was also a domain of the Chiba family, as detailed in ancient documents of the Odawara Hojo family》   《The place called Mitsumata is where the downstream waters of the Arakawa and Ayase rivers meet the Sumida River, hence the name. If so, then as recorded in Shiseki Gokko, the area north of Shinmei-gu would be the castle site》. The Kamakura Ososhi states...