翻刻
剡(せん)子(し) 鹿(ろく)‾乳(にう)奉(たてまつる)_レ親(おやに)
剡(せん)‾子(し)は其(その)_名(めい)‾字(じ)時(じ)‾代(だい)を詳(つまびらか)にせず。相(あひ)_伝(つたへ)て孝(こう)‾行(〳〵)の名(な)を
称(しよう)せり。父(ちゝ)_母(はゝ)老(としより)て眼(まなこ)を患(わづらひ)ければ。剡(せん)‾子(し)かなしみ。医(い)‾療(れう)を
尽(つくし)けるに。鹿(しか)の乳(ちゝ)‾汁を用(もちふ)れば癒(いゆ)べしとをしへける故(ゆゑ)。是(これ)を
得(え)ん事をおもへども。鹿(しか)を殺(ころ)して乳(ちゝ)の出(いづ)る事あらざれば。
身(み)に鹿(しかの)_皮【(かは)ヵ】を蒙(かうふ)り鹿(しか)の群(むれ)たる中(なか)にまじりて。乳(ちゝ)‾汁を
うかゞひ求(もとめ)けるを。猟(かり)_人(うと)実(まこと)の鹿(しか)とおもひ。間(ま)_近(ぢか)く来(きた)りて。
射(い)とらんとしけるに。剡(せん)‾子(し)声(こゑ)をあげて。しか〳〵のよしを
述(のべ)て。なげきわびければ。たけき猟(かり)_人(うど)も。さすがに孝(かう)‾心(しん)を
感(かん)じ。弓箭(ゆみや)をふせて通(とほ)りけるとなん。かくをさなうあ
やふき事(こと)をなせしも。親(おや)をおもふ孝(かう)‾子(し)の志(こゝろざし)を天(てん)の見(み)
そなはして。必(ひつ)‾死(し)の鏃(やじり)を免(まぬが)れしめ給(たま)へるなりけり