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翻刻
【大正】九年八月六日発行 デンキカンニユース 第八十四号
(五)
【五頁上段】
一週一言
当業者健在なりや
夢想兵衛
葵で、チヤプリンの『一日の快楽』を、尼港
最後の日や、問題になつたローンウルフの
娘と一所にやつて居る。
大阪で、ニコ大としてデブやアンブロー
ズと一所にドグの『ニツカボツカー』をやつ
て居る。
何処の社でも斯うした大作品は復写すると
云ふことだから、前のチヤプやドグのそれ
は或は復写物を出して居るのかも知れぬ。
そしてDで上映する時、本物を出して封切
とするのかも知れぬ□今までの例に照して
見ても或はそれが本当にあるかとも思ふ。
然し、兎にも角にもDは――殊に直営後に
於ては――日活の代表館であり、絶対の封
切□であるべき筈である。仮へ葵や大阪で
出して居るのが復写物であるとしても、あ
れだけの作品をDよりお先に他で公開する
と云ふことは、大会社としての信用上、営
業上大に考へなければならぬ事と思ふ。
今夏のニコ大でDは、あの二映画に就いて
随分苦しい思ひや、弁解をして、来るべき
新春の巨宝とし、来るべき秋の巨弾として
我々に誓つて居る。
その舌の根の乾かぬ目前、巨宝の二つとも
他に出された事は、Dとして何れ程心苦し
い事であらう。
【五頁中段】
知らず!かゝる没常識な策をなせる者は
何人なりや。真にDを愛せる自分達は遂に
Dをも日活全体をも呪ひ度くなる。
営業の秘訣は対者に愛せらるゝと云ふ事が
第一要素である以上□自分のものだがら自
分で勝手にすると云ふ様なやり方は、軈て
敵を造ると云ふ事を忘れてはならぬ。
それを勝手に他へ出す者も誤つて居る。そ
れを進んでやる者も僭越である。それを他
へ取られて見て居る者も間違つて居る。
当業者!果して健在なりや‼
大観小観
月入る窓より
可津次
スイート嬢の『歓楽の女』を見た。プロツ
トは可成調つた一見解し易い映画だつた。
英国の或漁村に、病める父を抱いた貧しい
うら若い女教員があつた。そして彼女がク
ルンバル卿の秘密を知つた時、卿の言葉に
従つて其人と結婚した。それは虚栄心に依
るのだと云つてあるが少し変である。
虚栄心は女性の本能で、且つ貧しい家、病
める父、卿の強制的結婚等に余儀なくされ
た彼女を捉へて、強く『虚栄』と云ふのは余
りに酷ではあるまいか。そしてタルンバル
の妻となつてからも常に孤児を救ふことを
忘れずに居る彼女は、真に憐れな女性であ
つた。社会は彼女を罪人としても、神は遂
に彼女□真の幸福を与へるのであつた。
悪の報ひのタルンバルが土人の弾丸に死す
は――真の愛情を有つラルストンの最後の
【五頁下段】
勝利を得ると同じ当然の神示である。
セダバラ嬢の面影あるスイート嬢のアリス
は初対面であるが、何となくチヤーミング
させらるゝ俳優である。処女と云ふ感じは
薄いが、柔かみと堅実な演出法は巧みであ
る。夫人となつてから、一層相応しかつた。
オークマン氏のラルフトンは物足らぬ様に
思はれた。熱がなかつた。
漁村の地方色は巧みに撮してあつたが、後
半南アフリカは見馴れた勢か、カリフオル
ニアであると云ふ事をあり〳〵感じた。
調色は変化に乏しく、単純であつた。
終りに永らく期待してゐたオリヴ、トー
マス嬢『光栄ある婦人』の上映を感謝する。
上たり下たり
借方生
D坊先きにチヤプ映画の蒸し焼にて信用
を落しグローム映画にて失敗し、更に又優
秀なりし六頁プロを廃し、貧弱なる四頁プ
ロとなさんとするやその反対の声高く、再
び□【六】頁とす。それ当然の事なり。お世辞な
き所Dの六頁プロは、内容の優良なる事自
他等しく認むる所なり。
トーマス、ミーハン氏ビツテイ、コンプ
ソン嬢の『危【奇】蹟の人』は昨年中の傑作なりと
聞く。ア社作品は日活の独専する所、願く
ば坊之を得て今秋の巨□弾とせよ。
館は各自異つたる零【雰】囲気を有す。Tに今
や懐しきブルーバードの影なし。多く連続
を□て得々たり。Cは稍面目一新し映画優
秀なれども館其他□昔日の余臭あり。Kに
至りては殆んど問題外なり、余りに超越的
なり。十年一日の如く昔を守つて連続物を
得て守本尊とす。然らばDは如何――高踏
的なり冷静也、稍余の理想に近し。
(六)
大正九年八月三六【「六日」の誤植】発行 デンキカンニユーズ 第八十四号
【六頁上段】
寄稿歓迎 締切毎月曜日正午
二つの映画
カト錦
『光栄ある婦人』セルズニツク映画は、何
処までも緊縮し切つて居る。去年の作とし
ては余りに瑕疵か多過ぎた様だ。染色は可
成り巧みであつた。それ等の点はユ社の例
の手段と類似して居る。他の点に於てはク
ラシツクの彩色に似て居る。
オリヴ、トーマス嬢は別に賞むる可き程の
芸妙は有つてゐなかつた。然し彼女の最善
の努力は目のあたり尽されてあつた。
マツト、ムーア氏は初めて見たのだが、不
思議な程彼等兄弟は相似通ふて居る点があ
る。例へばオーエ□【ン】でもトムでも、また彼
でもムーア一家の者皆、ユーモアな芸風を
有つてゐる。そして僕等が彼等に接した時
は何時も悲しいうちに温みのある。ベラン
メー語で云へば地獄に仏と云ふ気分に漂は
される。
『歓楽の女』永らく期待して居つた映画だ
つたが、染調色に於ても其他に於ても、前
者に劣つてゐた。タルンバル卿とジムとが
崖上で争ふ同じシーンなのに、色が緑にな
つたり黄になつたりした点だけでも知るべ
きである。然し七巻物としては斯くあるべ
きなのか知らない。倦怠も多かつたが、場
面の変化も多かつた。そして光線と背景と
が如何にこの映画の価値に影響して居るか
多大であらねばならぬ。
監督は無難であつたと言ひ得る。
【六頁中段】
二作品私評
多慶夫
『光栄ある婦人』を見終つた私は云知れぬ
喜びを感じました。それは単純なプロツト
の多い米国映画の中に、極めて落付のある
深みのあるものを見出したからである。
勿論それにはヱドモンド、グルーデイング
氏の力にも依るが、もつと此映画を価値付
けたのはトーマスとムーアの息の合つた演
出の巧妙にあると思ふ。
競馬の一珍事から図らず知り合つた青年に
対する愛、そして身分財産等の階級に対す
る悶え―――乙女の心持【?】が如何にもなだら
かに徴【「微」または「纖」の誤植か】細に描出されてあつた。又ムーアの
乙女に対する青年の心情が極めて巧みであ
つた。若人の快活さ、乙女を思ふ心、階級
を打破する感じ等か偽りなく何の雑作なく
描かれてあつた。ラストシーンの間奏楽に
『王様の馬』を用ひたのは会心である。
『歓楽の女』虚栄心の強い一女教員の数寄【奇】
な運命を批判した作者の手腕は推賞するに
価する。然し此映画は不徹底である。少く
も作者の表はさうとした女の運命が有りの
まゝに出てゐない。もつと女教員の生活に
変化がなくてはならぬ。思慮浅いイヴの子
が、虚栄に憧れて冷い現実から受ける救酬
はもつと或る何等かの響きを有つてゐなけ
ればならぬ。劇の進行が不解明である。
感じたまゝに
紫の愛子
トマス映画がDに出たのは意外でした。
然し『光栄ある婦人』は余り感心した作品で
はありません。プロツトが余りに月並で、
【六頁下段】
其処にも此処にも大きな矛盾が見出されま
した。またラストにあんな喜劇的な芝居を
入れあるなんて問題にならない程馬鹿〳〵
しく感じました。然しそれにしてもあの作
品が可成り大きな感鳴を与へたのは、撮影
技巧と脚色とそしてあの繊細なトーマス嬢
の芸術の力で、その一場面、一場面はそれ
は美しい名画を見る様でした。
劇の気分を表はす調色、地方色―――私は
あのプロツトが立派なものであつたならば
と情なく思ひました。
俺の言草
千鳥
此前に余り文句ばかり列べたので、今と
なつて何だか極りが悪い様な気がする。
あんな事件は、まう過去の事として、水に
流して了つた方が、お互に気持がいゝ。
その癖、コダ〳〵文句を言ひながら矢張り
Dに行くのが可笑しい。兎角人間と云ふも
のは妙なもんだ。
おや又ニユーズが変つた。また此の木阿弥
陀如来様だ。之なら文句はないさ。
『光栄ある婦人』オリーヴ、トーマス嬢に
は初めてだが、なか〳〵もつて可愛らしい
俳優だ。人形の様な姿をしてゐる。それで
プロツトも面白く、殊に染色のいゝのが目
立つてゐるし、ラストシーンもよかつた。
マツト、ムーア氏の出演は儲け物だつた。
『歓楽の女』は初めの三四巻の間が非常に
好かつた。俺には初めてのスイート嬢が一
番光つて見へ、子役を務めたバーリー君も
なか〳〵味な芸を見せた。然し土人との戦
争や軽気□などにも□味なく。ラストシー
ンも馬鹿げて飽【?】気なかつた。
【欄外左】
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