翻刻
不利なるを見、兵を引いて退きける。この時武田晴信、晴近に旨を伝へ、山家三方及野田の帰
服を計らしむ。晴近命に従ひ、田峯菅沼の老臣城所道寿及作手奥平の臣山崎善九郎を使嗾して
その目的を達せんとす。定盈独り節を変ぜず頑としてこれを郤きければ、其年信玄山家三方衆
(作手奥平、長篠菅沼、田峯菅沼)を先方となして来襲したり。定盈一時西郷に退き、後再び築
城してこゝに居住す。天正元年正月信玄再び大兵を擁して来り攻む。守将菅沼定盈、加勢松平
與一郎忠正、設楽甚三郎貞道等、都合四百人にて籠城よく防戦す。信玄大兵を以て攻め囲みし
も少しも屈せず、矢砲を放ち、大石大木を投下し、粉骨砕身して防戦すれば、信玄攻め厭みて
引き退き、翌朝より又取巻きて新手を入れ替え〳〵、昼夜を別たず攻めしが、城中少しも弱ら
ねば、信玄謀を廻し、城端より地道を堀入れければ、城内の井水悉く洩れ抜けて、城中は水尽
き、搗て糧米も漸く乏しく成りければ、定盈、その由浜松の家康に注進したり。報を得し、家
康は直に三千余騎を引率して、笠比山迄出馬有りけるが、老功の信玄は段々に備を立てゝ後詰
の用意を為し、且遊軍をも備へ置きければ、寡兵を以て大兵に当り難く、小栗大六を織田氏に
遣し援兵を乞ひけるも、信長も信玄の猛威恐れしか、承諾は有りながら、兎角出勢を延引しけ
れば、其間城内水尽き果てゝ城兵の士気沮喪し、加ふるに新八郎の甥弾正左衛門貞俊が信玄に
内通するの聞えもあり、新八郎は城の守り難きを見て、與一郎と相談し、信玄の陣へ使者を送
り、城中既に水尽きて防戦する事を得ず、我々両人身を殺して衆に代らんと欲す、願はくは許
容あれと申し遣しければ、信玄尤もなりとてこれを許し、両人を山縣三郎兵衛の陣中に招き、
途中伏を設けて両人を生捕りとなし、しかして城中の男女は、悉く放ち去らしむ。信玄近臣をし
て新八郎、與一郎に云はせけるは、両将此度の籠城の武勇義気頼母しく、信玄感ずが故に、徒
に切腹せられんことを惜みて斯くは計らひたりと。徳川氏への義気は是迄の武勇にてすでに顕
れたり、今後天命に応じ、信玄に身を寄せ給へば、三千貫の知行を進上せんと詞巧に説き諭し
たり。両将は鉄肝石胆の輩なれば、是を聞きて、信玄の恩命真に忝なし、然れ共徳川重恩の者
共なれば、今更これを変じ難し、速に首を刎ねらるべしと答へければ、信玄益々その義気に感
じ、暫く山縣三郎兵衛に預け置きて、城を請取りたり。然るに当時信玄へ降りたる、奥平道文、
菅沼刑部、菅沼新九郎等の徳川氏へ入れおきたる人質と、新八郎、與一郎両人と交換の事を願
出でければ、信玄尤もなりとて、浜松の家康に申し遣しければ、家康も早速の同意にて、交換
のことを果しけり。こゝに於て両将は命永らへて本国にかへり来りければ、家康大に悦び、新
八郎の忠烈を感賞して加恩の地を与へけり。このことありてより信玄俄に重病に罹り、長篠城