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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之16 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之16 - ページ 52

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【右丁】  町(まち)といへるにありしを元和(けんわ)の頃(ころ)今の地に引(ひき)たりとそ明暦(めいれき)二年丙申 松浦家(まつらけ)の  母儀(ほき)永昌院(えいしやうゐん)再興(さいこう)ありしとなり則(すなはち)境内(けいたい)に長者(ちやうしや)の墳墓(ふんほ)あり 円満山(ゑんまんさん)広徳寺(くわうとくし) 同所にあり大徳寺派(たいとくしは)の禅宗(せんしう)にして始(はしめ)相州(さうしう)小田原(をたはら)  にありしを天正(てんしやう)十九年 江戸(えと)に遷(うつ)され神田(かんた)にて地(ち)を賜(たま)ふ《割書:事跡合考(しせきかつかう)に昌(しやう)|平橋(へいはし)の内(うち)其ころ》  《割書:いまた足入(あしいれ)の沼地(ぬまち)なりしをとやかくして纔(わつか)なる堂(たう)|一宇(いちう)を建(たて)たりと其頃(そのころ)迄(まて)は当寺(たうし)昌平橋(しやうへいはし)の内(うち)にありしなり》其後(そののち)寛永(くはんえい)の末(すゑ)今(いま)の地(ち)に遷(うつ)る開(かい)  山(さん)を希叟宗竿禅師(きさうしうかんせんし)といへり   《割書:当寺(たうし)の総門(そうもん)は名匠(めいしやう)の差図(さしづ)にして是迄(これまて)風火(ふうくは)の難(なん)度々(たひ〳〵)にをよふといへとも恙(つゝか)なし最(もつとも)番匠(はんしやう)の規(き)|矩(く)とする所(ところ)なり詳(つまひらか)に梅臘主人(はいらふしゆしん)【注①】あらはせる新斎夜話(しんさいやわ)といへける草紙(さうし)に出たり》 下谷稲荷(したやいなり)社 広徳寺(くわうとくし)の向(むか)ふ側(かは)にあり故(ゆへ)に俗(そく)呼(よひ)て広徳寺(くわうとくし)の稲荷(いなり)と称(しよう)す  是(これ)大(おほい)なる誤(あやまり)なり別当(へつたう)を正法院(しやうほふゐん)といふ祭神(さいしん)は蒼稲魂命(うかのみたまのみこと)【注②】にして本地(ほんち)十一(しふいち)  面観世音(めんくはんせおむ)は行基大士(きやうきたいし)彫刻(てうこく)の霊像(れいさう)なりとそ中(なか)の鳥井(とりゐ)に正一位稲荷大(しやういちゐいなりたい)  明神(みやうしん)と書(かけ)る額(かく)あり崇保院公寛法親王(そうほゐんこうくはんほふしんわう)の真蹟(しんせき)なり拝殿(はいでん)に掲(かけ)たる  同 神号(しんかう)の額(かく)は蓮花光院(れんけくはうゐん)道恕(たうによ)【注③】の筆(ふて)なり当社(たうしや)祭礼(さいれい)は隔年(かくねん)三月  十一日に執行(しゆきやう)す下谷(したや)の鎮守(ちんちゆ)と称(しよう)す 【左丁】 【見返】      【蔵書印】豊田家蔵 【注① 「臘」は「朧」ヵ】 【注② 「蒼」は「倉」ヵ】 【注③ 「道恕」の振り仮名の「とうによ」は「たうじよ」ヵ】