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翻刻
(四)
大正十年三月三十一日発行 デンキカン.ニユース 第百十八号
【四頁上段】
フアンの頁
名作の映画化
今井桃村
小説の映画化と舞台劇の映画化とが現今
の映画劇を二分して居る。併し舞台劇を映
画化して行くのも決して悪い事では無いが
より以上小説の映画化が望ましい。映画劇
が、綜合芸術としての偉大さを有して居る
のを思つて見れば模倣よりも寧ろ独創の方
が自然であり、現実的では無からうか。殊
に世紀に依つて生み出された幾多の名作を
映画化す事は芸術的見地から考察して実際
望ましい事だ。ヂヤン、バルヂヤンの演出
が何処迄手際良く運ばれて居たかそれは知
らないがフアーナムの「レ、ミゼラブル」を
私は本当に味ふ気持で見た。私は今バラ嬢
の「サロメ」を夢見て居る。彼の女の深刻
な毒婦の心理描写が第三者としての私達に
どれだけの感銘を与へるかを期待して居
る。
デユーマやヂヤツク、ロンドンの作品等も
大分映画化されて居る。私は今ビヨルソン
の「森の処女」を読んで居る。くだらぬ事
だがターナーの様式化には、持つて来いの
恋物語りだと、つく〴〵思つた。
偶感一章
花村章夫
映画劇に於て映画の観察を外部から見て
内面に及ぼす人と先づ内部から考察して外
面に亘つて見る人との態度は判然として居
【四頁中段】
る。勿論そこに幾多の傍流、数多き支流を
生ずるが時として両者の陥り易き弊はそれ
が只単に外部から見ることを忘れて平面だ
けの観察に流れ或は内部のみを見て之れが
具体の事象を蔑にすることがある。
そこでそうした概略的の観察を避けて全
般的の観察を以て考察する時に始めて其の
真髄に触れることが出来る映画が此の「天
国への道」である、破綻として認め得る点
も時には発見するが単に空想に生きて実在
的には死んだ映画と云ふが適当と思ふ。映
画気分も確かに心理象徴劇の適題には相応
したハーモニーもあり且又気持良くスラ
〳〵と運んで行く殊に具体的には大なる暗
示を与へて居る映画で人間界に於けるサマ
ーズの心理描写もグラデイス、ブロツクエ
ル嬢に依つて巧みに描出され其の自然的演
出もかなりに劇的効果を収めて居た。劇的
内容の展開は全巻を通じて割合に良く進行
して居つた、兎に角近頃には珍しい映画で
あつた。
自己と姓名 (二)
内田徳司
話が後にもどる。売名家……真に自己を
愛する者がどうして自己である姓名を売る
事が出来やう?誠である人間がどうして生
命である自己を売る事が出来やう?真の投
書家は売名家であり得ない。以上の理由か
ら……然し此処で問題が二つに別れる。
投書家の中には売名家が居る(然し其れは
真の投書家ではない)彼等は姓名と自己と
を無関係視して居るから。姓名を人々に知
られると云ふ事を目的にして自己と云ふも
のを忘れて居る。姓名とは自己のある場合
に生ある再現である事を知らない。云ひ換
【四頁下段】
へたら投書の価値が自己表現である事を知
らずに単なる姓名の市場と心得て居る。だ
から姓名を軽く見て売るのだ……彼等は真
の姓名の意義を知らないで姓名が自己を代
表するのを知らない。だから載らんが為め
の投書を書く。然し其れは真の投書でない
客観的態度即ち環境を対象とし其の対象
に生き得る人間は幸福かも知れない。然し
其れは愛のある人間にはあまり淋し過ぎる
そんな人にどうして人間味が……と思ふ
少なく共我々は投書家でありたい、人間で
ありたいさうして投書家を以て装ふ偽善者
に真の愛と自己とを自覚させたい。
其れと同時に編輯者にもある点迄私等の人
格を認めてもらひたい。
友よ…私等に共々によき人間であらうと祈
らふよ、全宇宙の真の愛の神々に祈願する
(完)
人生の奇蹟に就いて S坊
フアンの頁の末隅をお藉りして「人生の
奇蹟」に就いて少し書きます。過日内田徳
司君のお手紙の一節に「人生の奇蹟は……ア
メリカン物でないと思ひます、フイツシヤ
ーが年をとりすぎて居ます。あの場面転換
が米国でなく調色や家の様子が独逸と思へ
ます、然し米国経由のものでアートタイト
ルがしてあると思ひます、」と……然し乍ら
私は米国アメリカン社の製作になる映画で
あると信じて居ます、あの映画はフイツシ
ヤー嬢の七年前の作品で当時の出演映画に
「ザ、クエスト」「ウイズ、エクイテーブル
「ザ、ドラゴン」等がある筈確か「楽園の名
花」以前の作品です。