翻刻
【右丁】
昌(しやう)の地(ち)たり後(うしろ)には三田(みた)の丘(をか)綿々(めん〳〵)とし前(まへ)には品川(しなかは)の海(うみ)遥(はるか)に
開(ひら)け渚(なきさ)に寄(よす)る浦浪(うらなみ)の真砂(まさこ)を洗(あら)ふ光景(ありさま)なと最(いと)興(きやう)あり
高輪(たかなわ)ゕ原(はら) 里老(りらう)云(いは)く白金臺(しろかねたい)及(およ)ひ二本榎(にほんえのき)品川臺(しなかはたい)大井村(おほゐむら)抔(なと)いふ
辺(あた)り迄(まて)の惣称(さうしよう)なりとそ異本(ゐほん)北條五代記(ほふてうこたいき)に上杉修理太夫朝興(うへすきしゆりのたいふともおき)
武州(ふしう)江戸(えと)の城(しろ)に居住(きよちゆう)す大永(たいえい)四年正月十三日/小田原(をたはら)北条家(ほふてうけ)
より二万餘騎(にまんよき)を引卒(いんそつ)し朝興(ともおき)を攻(せめ)ん為(ため)に彼地(かのち)を發向(はつかう)す
依(よつ)て稲毛(いなけ)六郷(ろくかう)の上杉(うへすき)の家人(けにん)より早馬(はやうま)をもて急(きう)を告(つく)る
朝興(ともおき)は俄(にはか)の事(こと)にて軍評定(いくさひやうちやう)にも及(およ)はす中途(ちゆうと)に出迎(いてむか)ひて勝(しよう)
負(ふ)を決(けつ)すへしと討(うつ)て出(いて)小田原(をたはら)の先陣(せんちん)と品川(しなかは)高輪(たかなわ)ゕ原(はら)
にて渡(わた)り合(あふ)とあり《割書:小田原記(をたはらき)に永禄(えいろく)信玄(しんけん)小田原(をたはら)を攻(せめ)むとする条(てう)|下(か)に一手(ひとて)は江戸(えと)品川(しなかは)の縄嶋(なはしま)の辺(へん)を焼(やき)て民屋(みんおく)を》
《割書: 追捕(つゐほ)すとあり又(また)江戸咄(えとはなし)に高縄手(たかなはて)とあり然(しか)る時(とき)は高縄(たかなは)は高縄手(たかなはて)なり| 按(あんする)に今(いま)の海道(かいたう)は後世(こうせい)に開(ひら)けしものにて古(いにしへ)は丘(をか)の上通(うへとほ)りを通路(つうろ)せしなれは》
《割書: さもありなんかし|》
萬松山(まんしようさん)泉岳寺(せんかくし) 海道(かいたう)の右(みき)にあり野州(やしう)冨田(とんた)の大中寺(たいちゆうし)に属(そく)す曹洞(さうとう)
【左丁】
宗(しう)江戸三箇寺(えとさんかし)の一員(いちいん)たり《割書:橋場(はしば)総泉寺(さうせんし)芝(しは)|青松寺(せいしようし)當寺(たうし)等(とう)也》坊舎(はうしや)三/宇(う)学寮(かくりやう)九
宇(う)あり當寺(たうし)は往古(そのかみ)慶長年間(けいちやうねんかん) 台命(たいめい)を奉(ほう)して門庵宗関(もんあんそうくわん)
和尚(おしやう)外櫻田(そとさくらた)の地(ち)に創建(さうこん)する所(ところ)の禅刹(せんせつ)なり後(のち)寛永(くわんえい)十
八年辛巳/再(ふたゝひ)命(めい)ありて寺(てら)を今(いま)の地(ち)に移(うつ)したりといふ本尊(ほんそん)
釈迦如来(しやかによらい)は座像(ささう)二尺/計(はかり)あり脇士(けふし)は文珠(もんしゆ)普賢(ふけん)なり総(さう)
門(もん)の額(かく)萬松山(まんしようさん)の三大字(さんたいし)は華僧(くわそう)閩沙門(みんのしやもん)道霈(たうはい)の書(しよ)にして
康熙(かうき)辛酉/孟冬(まうとう)上浣(しやうくわん)と記(しる)せり
當寺(たうし)は浅野家(あさのけ)の香花院(かうけゐん)にして其(その)家(いへ)累代(るゐたい)の兆域(ちやういき)あり
又(また)浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみなかのり)及(およ)ひ義士(きし)四十七人の石塔(せきたふ)あり方丈(はうちやう)
より南(みなみ)の丘(をか)の半腹(はんふく)にあり傍(かたはら)に當寺(たうし)住僧(ちゆうそう)建(たつ)る所(ところ)の石(せき)
碑(ひ)あり其(その)旨趣(ししゆ)を注(ちゆう)す二月三月の四日/及(およ)ひ正月七月の十
六日/等(とう)には英名(えいめい)を追慕(つゐほ)してこゝに集(つと)ふ人(ひと)少(すくな)からす又(また)當寺(たうし)に
義士等(きしら)の遺物(ゆゐもつ)を収蔵(しゆさう)する事/多(おほ)し