翻刻
【右丁】
普請(ふしん)の間(あひた)今戸(いまと)鳥越(とりこえ)山谷(さんや)の間(あひた)に借宅(しやくたく)いたし渡世(とせい)する事を
ゆるさる花街(くわかい)今(いま)に旧地(きうち)に在(あり)なは戯場(しはゐ)相接(あいせつ)し滋(ます〳〵)繁昌(はんしやう)をは極(きは)むへ
けれと祝融(しゆくいう)の祟(たゝり)弥(いよ〳〵)しけかるへししかるに彼地(かのち)へ移(うつ)されし事
おほやけの御/恵(めくみ)いと有難(ありかた)き事にこそ《割書:第六巻(たいろくくわん)新吉原町(しんよしはらまち)の|条下(てうか)に詳(つまひらか)なり》
《割書:按(あんする)に哥舞妓(かふき)は其始(そのはしめ)遊女(いうちよ)より出(いて)たる名(な)にして哥(うた)ひ舞(まふ)の妓女(きちよ)なりといふ|略語(りやくこ)なり昔(むかし)は専(もつは)ら高貴(かうき)の人(ひと)に愛(あい)せられし故(ゆゑ)にたはむれに長門守(なかとのかみ)丹後守(たんこのかみ)》
《割書:抔(なと)と呼(よひ)ならはしけるよりいつしか遊女(いうちよ)およひ哥舞妓役者(かふきやくしや)に太夫(たいふ)の称(しよう)發(おく)りし|となり故(ゆゑ)に今(いま)狂言座元(きやうけんさもと)を太夫(たいふ)元と唱(とな)へ若女形(わかをんなかた)の藝(けい)に長(ちやう)したるを太夫(たいふ)と》
《割書:呼(よ)ふは其余風(そのよふう)なるへしされと今(いま)大江戸(おほえと)には遊女(いうちよ)に太夫(たいふ)の称(しやう)をうしなへり|寛永(くわんえい)十八年の印本(いんほん)そゝろ物語(ものかたり)といへるものにこの吉原町(よしはらまち)の哥舞妓女(かふきをんな)を愛(あい)》
《割書:することをあけたり中(なか)にも佐渡島正吉(さとしましやうきち)村山左近(むらやまさこん)國本織部(くにもとおりへ)北野小太夫(きたのこたいふ)出来島(てきしま)|長門守(なかとのかみ)杉山主殿(すきやまとのも)米島丹後守(よねしまたんこのかみ)なとゝいひて名(な)を得(え)し遊女(いうちよ)あり是等(これら)は一座(いちさ)の》
《割書:かしらにて其頃(そのころ)哥舞妓(かふき)にて和尚(おしやう)と称(しやう)せしとそ又/日(ひ)を重(かさ)ね此町/繁昌(はんしやう)せる故(ゆゑ)|町割(まちわり)をなし本町(ほんちやう)およひ京町(きやうまち)江戸町(えとちやう)伏見町(ふしみちやう)堺町(さかいちやう)大坂町(おふさかちやう)墨(すみ)町/新町(しんまち)抔(なと)と名付(なつけ)家(いへ)》
《割書:居(ゐ)美々(ひゝ)しく軒(のき)をならへ草(くさ)の仮家(かりや)をあらためて板葺(いたふき)に作(つく)りかへ又/本(ほん)町を中(なか)に|こめて其(その)めくりに揚屋町(あけやまち)を置(お)き幾筋(いくすち)ともなく横(よこ)町をひらき能(のう)哥舞妓(かふき)の舞(ふ)》
《割書:台(たい)をしつらひ置(おき)ひことに興行(こうきやう)しける由(よし)記(しる)せり又/江戸名所記等(えとめいしよきとう)にも遊女(いうちよ)等(ら)|芝居(しはゐ)をかまへ哥舞妓(かふき)をなせしに皆(みな)人めてまとひて世(よ)のさまたけともなりけれは》
《割書:是(これ)を禁(きん)せられ其後(そのゝち)は若衆(わかしゆ)哥舞妓(かふき)と云事を興行(こうきやう)ありしかはうるはしき|少年(しやうねん)に哥(うた)諷(うた)はせ舞(まは)せけるとなり》
賀茂真淵翁(かものまふちをう)閑居地(かんきよのち) 濱町(はまちやう)にあり《割書:宝暦(はうれき)十四年/此地(このち)へうつり住(ちゆう)|するよし家集(いへのしふ)に見えたり》真淵翁(まふちをう)一に
【左丁】
岡部衛士(をかへのゑし)又は縣居(あかたゐ)とも称(しよう)せり賀茂縣主成助(かものあかたぬしなりすけ)の末葉(まつえふ)にして世々(よゝ)洛北(らくほく)
賀茂(かもの)大神の宮司(みやつこ)たり同/師朝(もろとも)の時(とき)文永(ふんえい)十一年甲戌/遠州濱松庄(ゑんしうはままつのしやう)
岡部郷(をかへのかう)なる賀茂(かも)の新宮(しんくう)を斎(いつき)まつるへき詔(みことのり)を蒙(こふむ)り又/彼地(かのち)を賜(たまはり)て
其宮(そのみや)の神主(かんぬし)となり即(すなはち)岡部郷(をかへのかう)に住(ちゆう)せり翁(おきな)は其後裔(そのこうえい)定臣(さたをみ)といへるか
子にて元禄(けんろく)十一年丁丑/彼地(かのち)に生(うま)る壮(わかゝりし)より深(ふか)く國朝(おほみくに)の学(まなひ)に心(こゝろ)を
よせ享保(きやうほ)十八年癸丑/花洛(くわらく)に至(いた)り荷田宿祢春満(かたのすくねあつままろ)の教(をしへ)を受(う)け後(のち)
大(おほい)に國学(こくかく)を以(もつ)て世(よ)に鳴(なる)《割書:荷田宿祢(かたのすくね)は本姓(ほんせい)なり世(よ)に羽倉斎宮(はくらいつき)|と称(しよう)す此人(このひと)は洛南(らくなん)稲荷社(いなりのやしろ)の祠官(しくわん)なり》寛延(くわんえん)三年
庚午/大江戸(おほえと)に来(きた)り田安(たやす)の殿(との)の召(めし)に応(おう)し古(いにし)への書(ふみ)の道(みち)の博士(はかせ)として
特(こと)に愛(めて)させ給ひ其頃(そのころ)御衣(きよい)を賜(たま)はりしかは其(その)かしこまりに和哥(わか)を奉(たてまつ)る
あふひてふあやの御衣を氏人のかつかむものと神やしりけん
其後(そのゝち)宝暦(はうれき)十年庚辰/仕(つかへ)をかへし奉(たてまつ)りて濱町(はまちやう)に隠栖(ゐんせい)す翁(おきな)を縣居(あかたゐ)
と唱(とな)ふるは庭(には)を田居(たゐ)の様(やう)に作(つく)りしかも賀茂氏(かもうち)の姓(かはね)にも縁(よし)あれは
とてみつから家(いへ)の号(な)に呼(よは)れたるとなり生涯(しやうかい)の著述(ちよしゆつ)凡(およそ)六十/餘部(よふ)其(その)