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コレクション: アジアの映画関連資料アーカイブ

デンキカン・ニュース - 翻刻

デンキカン・ニュース - ページ 3

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(四)大正十年四月七日発行 デンキカン.ニユース 第百十九号 【上段】 フアンの頁 ■青い夜の夢(断片) 寺島春宵 「乙女の夢」──。  劇全体から考へて見てもあまり優れた作 品とは云はれない。俳優の選択と人生とを もう少し真面目に、広義に見てほしい。 劇的気分を尊重するアルバート、カペラニ 監督としてはあまりに粗雑すぎる感がある せめて同じヤングでも「空蝉」時代の彼女で あつたならば……。 ヤングに対してチ【あ?】まりに艶に乏しい。コン ウエー、タールにはもつと突き入つた描写 が出来ぬであらうか?はつきりしない演出 である。物語の半ばに稍印象的な場面があ つた様に思ふが淡いものである。  諷刺的映画としても、劇に力が足りない 作品であらう。私は不満である。 ■吾感想の記録より 大和哲朗  独逸映画「死の曲」は凡てが伊太利的に出 来上つて居た。場面の形態、舞台装置及び 染調色、そしてプロツトに到る迄──。然 し箇別的に解剖批評を加へて見ると大体に 於て十二分の優秀さを示して居るが、概念 的に於ては悲哀の気分に欠けて居た。故に 悲劇なるが為めの該映画が観客を其の雰囲 気に煮込んで行く程、その魅力に於て欠乏 して居る。即ち観客を泣かせる迄の道程に 【中段】 到達して居ない。それに就いて論じること が出来たならば凡てを論及したことになる  先づ大写が案外に使用されて居なかつた と云ふ事、米国映画程写実的で無いと云ふ 事と、そしてホルテン嬢にホロリとさせる 様な表情の無かつた事。未だあらう。然し 自分の感想範囲内に於ては以上の通りだ。 モニカに扮した同嬢は余りに色気たつぷり に過ぎた傾向がある。一面に於ては伊国映 画らしいローマンチツクな処があるが、そ れに見受けるやうな或種の冷やかさが無い そしてそこにスパニツシユな長所がある。 何にしても独逸映画の異色として注目すべ きものである事を失わない。 ■「死の曲」私評 高田多慶夫  何う云ふものだか私は映画をプロツト本 位に見る癖がある。それが良い事か悪い事 かは知らないが・・・・で友からよく「グリフ イス物をプロツト本位に観るなんて・・・・」 とか「デミル作品のプロツトを云々するの は野暮だ」などゝ言はれる。グリフイスや デミルの物は何を見るのが至当だか知らぬ が「独逸物」は慥に何よりも先づプロツト を見る可きだと思ふ。それは監督者が成つ て居ないとか又俳優の縁起が見るに足らぬ とか云ふのはでなく──然し是は独逸映画 に於ては従の部で有る──あの特有の深刻 味のある描写で進む独逸物のプロツトが美 しい詩味を以つてロマンチツクな気分を漂 はし乍ら、而も少しも浅薄でなく非理実的 でなく何事か真理の提唱に観客を首肯させ ずには置かぬ──と云ふ実に緩和されたあ る情調に依つて構成された独逸物のプロツ 【下段】 トが他の何物よりも傑出してゐるからであ る。「死の曲」はかうした独逸物の価値を充 分に持つ代表的な物だと思ふ。モニカとア マデイウスの恋の成り行きも自然だし、ジ ヨンとの争闘も無理な所がない。そして青 年の唄に聞き惚れる乙女と乙女の唄に心惹 かされた青年とが語る恋が如何にも美しい センチメントで描かれてあり最後に絞首台 に消ゆる青年に乙女が会ひに来る辺りは独 逸らしい深刻さが見られる。然し何故乙女 が白髪になつたのか良く分からなかつた。「魔 の指輪」以来久し振りでの傑作だつた。 環境の相違(一) 朽川一彌 〖一〗  『全く異なる或芸術で非常に完全に表現 し得るモーテイーフは他の芸術では表はし 得ない』と誰かの話に有りました。 〖二〗  舞台芸術にしても小説にしても、夫々異 なつた環境を持つて居る以上夫等を映画化 せんとするには映画芸術としての約束の下 に各々の箇性は制限されてオリヂナルの味 は削がれはしないでせうか。従つて其に依 つて原作を想像するときは其処に大へんな 誤解が生じはしないでせうか。 〖三〗  オリヂナルが概念的内容を持つて居る時 は映画化も比較的に容易でせうが、思想の 言葉の劇と言はるゝ近代劇に至つては最も 困難な事とされて居るやうです。(未完) ■カト錦氏へ■ 玉稿は紙面の都合上次週 のニユースに掲載致しますからお承知を。