翻刻!地震・災害史料

コレクション: NDL地震・火山

火水風災雑輯. [1] - 翻刻

火水風災雑輯. [1] - ページ 54

ページ: 54

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越         信州十郡           佐久伊那高井   信濃国大地震  埴科小県水内           筑摩更科諏訪 後         安曇コゝ二記ス 抑天地 不時(ふし)乃 変動(へんどう)ハ 陰陽(いんよう)こんじて天にあれば雷雨となり地にいればぢしんをなすアヽ神仏のおうこも是をおさむる事かたしされバ此度 弘化四丁未三月廿四日夜亥の刻より信州水内郡の辺より前代ミもんの大地しんにて山をくつし水をふき火ゑん天地をくらまし人 馬乃損ずる事おびたゞしゑんごく他所にてかの地ゑんるいのもの安否をたづねなげきかなしむも少なからず仍てち名をくわしくあげ遠近に しらせかつハ後代のかたりつたへにもならんか先善光寺乃辺ことにはなはたしそれ地しんといふより早くしんどうなし大山をくつし川を うつめ土中ゟくわゑんのことき物ふき出し御殿宝蔵寺中丁屋ハ申に及はすあるひハつぶれ或ハ大地にめり込大たんーーー 僧ぞくなん女ろうせう乃死人あげてかぞへがたしあまつさへ地火八方にちり不残せうぼうし廿七迄水火にくるしむ事を ひつしにつくしかたし是より北乃かた大峯くろひめ山戸がくし山上松北郷しんかうじ福岡上の西条吉村田子平手室飯 まち小平落影小馬大馬柏はらしほじり赤川せき川乃お御関所辺よりゑちご高田御ぜう下へん廿四日よりゆりはじめ廿九日 午の刻頃別してつよくゆり土蔵寺しや人家をくづし首きこふりの分ことにひどく大山ハくずれ田畑をうずめ大水にておしなが し死にんけがにん多くその内長澤村と申小村にて死亡の者六七十人も是あり此内土にうづまりわつか手足のミ有之 是ハぜんかうじより二三日おそくそうどうに及ぶ同寺よりひがしの方ハごんどう宿間の御所中乃御所あら木此辺ゟ□ーーー ことににきびしくおばすて山の名ハおろか親ハ子をすて子ハ親をたずね大地におちいりかゑんにまなこくらみ地ハさけてどろをふきだし 近辺乃山〳〵一同にくずれ川をうづめ此へん平地と成にげまよふ人〳〵□□といひ山手よりしんとう黒けむりに方角をうしない□ーー 川にはまり木石にうたれ水火になやミ牛馬乃そんじおびたゝしく青木嶋大塚間嶋こしまた水沢西寺尾田中辺ゟ□ーー になり松代乃御城辺きびしく度〳〵ゆり返しけるに廿九日の朝晦日の夕方迄つよくふるひ山〳〵よりがんぜきをくずし安庭むら山平 むら《割書:さらしな |水乃内》両村の間に岩くら山といふ高山半面両はしくすれ一方ハ四十丁一方ハ九十丁ほとさい川の上手へおし入其辺のむら〳〵うづまり こう水あふれ七八丈も高く数ヶ村湖水乃ごとくみなぎり平林かけ村赤しば関屋西条関屋川上下とくら中条横尾金井鼠宿 上下の塩じり村辺つよくちひさがた郡秋和生塚上田御ぜうか西の方ハ新丁かミにしま下にしま此辺山なり地中はらいのごとくなれハ此 辺乃者どもいきたる心ちなく前田手つか山田別所よねざハ沓かけなら本一の沢等およそ百四十三ヶ村ほど善光寺ゟ南乃方和□ 雨の宮小嶋やしろ向八幡し川山田新山此へん山つゞき筑摩郡に至りほうふく寺七あらし赤ぬ田洞村おかた町松岡あり尾水くまゟ松本□ーー 御城下きんへん百二三ヶ村ふるひつよく家居を多くたをす庄内田貫橋ちくま新丁あらゐ永田下新上新三賤より飛驒ゑつちう堺松もと より西の方あつミ郡宮ふち犬かい小海渡し中曽根ふミ入寺所熊くら城金丁ほそがやうら町とゞろき村下丁堀金むら小田井中むら 上下鳥羽すミよし長尾柏ばら七日市また此を辺き□ーー池田丁ほりの内曽根原宮本くさを舟場むら度〳〵ゆり□ハし□ さらしな郡の内小嶋はしにし大原和田下いちばかるゐ沢よし原竹房いま泉三水あんどこ小松原くぼでら中の□町人家乃損亡甚しく善光 寺より北乃方水内郡小ぶせかミしろあさの大倉かに沢今井赤さハ三ッ又さかいむら茂右衛門村□- --戸かく小泉とかり大つぼ曽根□ 小ざかいわらびの深沢山なりしんどうちうやゆり動き中にも飯山御しよう下きびしく大水押出し人馬多く死す善かうじゟ東の方髙井郡のふん 中じまとう高米持さかひ井沢八まん矢部高なし辺佐久郡ハ小もろの御城下西ハたきはら市町与良むら四ッ谷間瀬追はけかり宿□ーー くつかけ赤沢かるい沢峠町矢さき山あさま山上州口まですハ郡ハ□しぬの□ぜうゟ大ーーー木此辺少しく□内八重原大日向ほそ谷平村□ーーー 此辺ハ少しつよく廿四日より善光寺辺は廿五日朝やう〳〵少しずまり松代ゑちご路ハ廿五六日より廿九日晦日べつしてつよくちうやのぢしん 御代官様御地頭様よりかくべつの御手配にて水火をふせぎ人民の助けにかくも御れんミんにて米銭を御□当有がたき事実にたいそうの 御めぐミ申もなか〳〵おろかなり夫大ぢしんをきくに遠きいにしえハさし置□ハ文禄四年豊臣ひでよし公乃時代伏見大ぢしんにて京都 大仏でんをたをす慶長十八年冬京都大ぢしん寛永十年小田はら大ぢしん等々箱根山をくづし寛文二年京中大地震寛政 四年江戸大ぢしんにて六日七夜さゆる文政十一年霜月ゑちごの国大ぢしん天保元年京都大ぢしん是らハ人乃しる所なり□ーー へにて如此数度是あるといへとも此たび信しうのぢしんハきないの□ーなり人馬の死がいあげてかぞへがたし凡里数三十里四方 に及ぶしかるに当時ぜんかうじ如来 おかいちやうにて諸国より 参詣の者数万人 此大へんにあひ土地 不案内にてしんたい □しらせ 大方ならず本堂に かけ入御仏にすがり 一心にねんじたるもの 七百八十余人壱人も けがなく石垣を崩し 大地割たる中に本どう 山門きやう蔵泰ぜんとして□ □ハ仰ぎ尊むべしむべ なる哉人わう三十代 欽明天皇十二年三国伝来 ゑんぶだごんの尊ぞうにて百さい こくより弐本に渡す時の 大臣守屋物部自分 いたんのおしへ神明乃 御心にかなワじとなんば の池にすてさせ畢 其後信濃国の住人 本田よしミつ池の ほとりを通行なすに 池乃中より金じき の光りをはなちし ぜんとおんこえ有て善 光を御よびとめたれハ よしミつおどろひて池 ちうをさぐりこ乃 如来の尊ぞう を得て旧きよ しなの国伊奈 郡ざこうじむら に至り臼のうへに あんちす然るに れいむにかつて水 内郡今乃地にう つらせ給ふ御堂ハ三 十六代 皇極の女帝 勅願也 けいちやう二年七月 十八日太閤ひでよし 公の命によりて如 来を京都大ぶつでんに うつされしに如来乃 仏意にかなわせら れずしば〳〵おん たゝりつよく還 住のおんつげ是有 にまかせ同年八月 しなのゝ国にかへら せ給ふ是あまねく 人のしるところ にて日本三によらい のだい壱なりさればこの度もかゝる きうへんの折からに御どうつゝがなかれハ まつたくもつて仏力のしからしむるところ也 来世の利現いちじるしくかつハゑん者さんけいの諸 にんもさしてけがとうすくなきよしいよ〳〵 しんじあほぐべき事にとそ   御大名附 /真田信濃守(まつしろ十万石)   /松平伊賀守(上田五万三千石) /松平丹波守(まつもと六万石)   /内藤駿河守(たかとを三万三千石) /諏訪稲葉守(たかしま三万石)   /牧野遠江守(こもろ一万五千石) /本多豊後守(いゝ山二万石)   /内藤豊後守(いハむらだ一万五千石) /堀兵庫頭(いゝだ一万七千石)   /堀長門守(すさか一万五千石)