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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 314

ページ: 314

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【欄外】    豊橋市史談  (王政復古と吉田藩)                    六百 【本文】       に同志者(どうししや)を勧誘(くわんゆう)して更(さら)に出府(しゆつぷ)すべき事(こと)を約(やく)し清軒(せいけん)はそれより致堂(ちどう)と協議(けふぎ)の上(うへ)で遂(つゐ)に根岸(ねぎし)の僑居(けうきよ)を引(ひ)き 《割書:清軒洋学塾|を開く》  払(はら)ひ赤坂(あかさか)に一 戸(こ)を構(かま)へて公然(こうぜん)洋学塾(やうがくじゆく)を開(ひら)いたのである而(しか)して最初(さいしよ)其(その)家塾(かじゆく)に入(い)つたものは先(ま)づ関根致堂(せきねちどう)       それからは其頃(そのころ)吉田(よしだ)より出府(しゆつぷ)した処(ところ)の阿部泰蔵(あべたいざう)君(くん)等(ら)で其他(そのた)にも吉田在(よしだざい)の農家(のうか)で磯部某(いそべなにがし)尼(あま)ケ崎(さき)藩士(はんし)で三(みつ)       橋(はし)某(なにがし)黒羽(くろはね)の医師(ゐし)磯春作(いそはるさく)幕吏(ばくり)井戸(ゐど)某(なにがし)などがあつたのであるモツトモ右(みぎ)の中(なか)で阿部泰蔵(あべたいざう)君(くん)の如(ごと)きは今(いま)       の医学博士(ゐがくはくし)大澤健(おほざはけん)二 君(くん)等(ら)と共(とも)に初(はじ)め湖南拙庵(こなんせつあん)の処(ところ)で学(まな)び後(のち)に小野湖山(をのこざん)に就(つ)いて学(まな)むだのであるが関根(せきね)       致堂(ちどう)の出府(しゆつぷ)以来(いらい)之等(これら)の人々(ひと〴〵)も相続(あひつ)いで出府(しゆつぷ)する事(こと)と成(な)つたのである       此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で清軒(せいけん)はそれ以来(いらい)洋書(やうしよ)の教授(けふじゆ)に余念(よねん)なかつたのであるがイヨ〳〵慶応(けいおう)の二 年(ねん)となつて世(よ)の       中(なか)は益々(ます〳〵)騒然(さうぜん)として囂(かまびす)しく何時(いつ)如何(いか)なる変動(へんどう)を来(きた)するも側(はか)られざると云(い)ふの時(とき)に方(あた)り藩主(はんしゆ)信古(のぶひさ)は大(おほひ)に       感(かん)ずる処(ところ)があつて急(きふ)に清軒(せいけん)を藩(はん)に呼(よ)び寄(よ)せて藩政(はんせい)を補佐(ほさ)せしめむとしたのであるソコで信古(のぶひさ)は清軒(せいけん)の       父(ちゝ)喜左衛門(きざゑもん)を召(め)して其旨(そのむね)を伝(つた)へしめたが清軒(せいけん)も亦(ま)た之(これ)を以(もつ)て己(おの)れの志望(しぼう)を達(たつ)すべしとなしたので匆々(さう〳〵) 清軒の帰藩 其(その)家塾(かじゆく)を閉(と)づる事(こと)と相成(あひな)つたのである而(しか)して早速(さつそく)呉服橋(ごふくばし)内(ない)の藩邸(はんてい)に帰(かへ)つたが即日(そくじつ)公用人(こうようにん)を命(めい)ぜられ且(か)       つ藩(はん)の近臣中(きんしんちう)壮年(さうねん)の者(もの)に対(たい)して蘭学(らんがく)を教授(けふじゆ)すべき事(こと)命(めい)ぜられたのである然(しか)るに天下(てんか)の風雲(ふううん)は愈(いよ〳〵)急(きふ)       を告(つ)げ幕府(ばくふ)は各(かく)藩(はん)に令(れい)して速(すみやか)に大阪(おほさか)に上(のぼ)り将軍(せうぐん)を保護(ほご)すべき旨(むね)を命(めい)じたのであるが諸侯(しよこう)の中(なか)には頗(すこぶ)       る形勢(けいせい)を観望(くわんぼう)して蹶然(けつぜん)命(めい)に応(おう)ぜざるものが多(おほ)く孰(いづ)れも逡巡(しゆん〴〵)躊躇(ちうちよ)の有様(ありさま)であつたのである此時(このとき)清軒(せいけん)は藩(はん)       主(しゆ)信古(のぶひさ)に献言(けんげん)して速(すみやか)に台命(たいめい)を奉(ほう)じ上坂(ぜうはん)すべしと論(ろん)じたのであつたが倂(しか)し陸行(りくかう)は極(きは)めて不便(ふべん)であると       云(い)ふので幕府(ばくふ)の軍艦方(ぐんかんかた)に交渉(かうせう)し其(その)一 艘(さう)を借用(しやくよう)し之(これ)に藩主(はんしゆ)初(はじ)め一 行(かう)を搭乗(たうぜう)せしめ巳(おの)れは十月を以(もつ)て陸路(りくろ) 信古の下阪 先発(せんぱつ)し竊(ひそか)に沿道(えんどう)の形勢(けいせい)を探(さぐ)つたのである之(これ)は慶応(けいおう)三年の事(こと)で恰(あたか)も将軍(せうぐん)慶喜(よしのぶ)が大政奉還(たいせいほうかん)を奏上(そうじよう)した当(たう)       時(じ)であつたが藩主(はんしゆ)信古(のぶひさ)は清軒(せいけん)の説(せつ)を容(い)れ其(その)十一月を以(もつ)て藩士(はんし)等(ら)と共(とも)に幕府(ばくふ)の軍艦(ぐんかん)鳳翔丸(ほうしようまる)に搭(たう)じ品川(しながは) 【欄外】     発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野■吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千六百九十九号附録     (大正三年六月廿三日発行) 【本文】       を出発(しゆつぱつ)したのであるトコロが不幸(ふかう)にして暴風(ばうふう)に遭(あ)つた為(ため)に十三日 間(かん)もかゝつて漸(やうや)く天保山(てんぽうざん)に達(たつ)する事(こと)       が出来(でき)たと云(い)ふ次第(しだい)であつた即(すなは)ち十二月十三日を以(もつ)て品川沖(しながはおき)を出帆(しゆつぱん)したが(前(ぜん)に十一月となつて居(を)る       のは誤(あやまり))強風(けうふう)に遭(あ)つた為(ため)に伊豆(いづ)の井多湖浦(ゐたこうら)に滞泊(たいはく)し十八日に至(いた)つて同所(どうしよ)を出帆(しゆつぱん)した処(ところ)が又々(また〳〵)風浪(ふうろう)の為(ため)       に井多湖浦(ゐたこうら)へ乗(の)り戻(もど)り廿日 夜(よ)同所(どうしよ)を再(ふたゝ)び出帆(しゆつぱん)して廿一日には志州(ししう)の鳥羽(とば)へ滞泊(たいはく)し廿三日に漸(やうや)く同所(どうしよ)を       出発(しゆつぱつ)して廿五日 初(はじ)めて天保山(てんぽうざん)に達(たつ)したのである(乗船(ぜうせん)は翔鶴丸(しようかくまる)で前(ぜん)に鳳翔丸(ほうしようまる)としたのは之(これ)も誤(あやまり)である)       然(しか)るに御承知(ごせうち)の如(ごと)く其(その)翌(よく)慶応(けいおう)四 年(ねん)即(すなは)ち明治(めいぢ)元年(がんねん)の正月(せうがつ)には彼(か)の伏見鳥羽(ふしみとば)の戦(たゝかひ)があつて前(ぜん)将軍(せうぐん)慶喜(よしのぶ)は其(その)       月(つき)六日 竊(ひそか)に大坂(おほさか)を退(しりぞ)き翌(よく)七日 天保山(てんぽうざん)沖(おき)から開陽艦(かいやうかん)に乗(の)つて海路(かいろ)江戸(えど)に逃(のが)れ帰(かへ)つたと云(い)ふ訳(わけ)である此時(このとき)       に於(お)ける大坂(おほさか)城中(じようちう)の混雑(こんざつ)と云(い)ふものは名状(めいぜう)すべからざるものがあつたのであるが我(わが)吉田藩(よしだはん)に於(おい)ては六 《割書:君前会議の|激論》  日 藩主(はんしゆ)の面前(めんぜん)に於(おい)て重臣(ぢうしん)会議(くわいぎ)を開(ひら)き大(おほひ)に其(その)執(と)るべき方針(はうしん)を協議(けふぎ)したのである当時(たうじ)熱心(ねつしん)なる佐幕論者(さばくろんしや)は       清軒(せいけん)であつたが中(なか)には幕府(ばくふ)の頽勢(たいせい)に赴(おもむ)けるを見(み)寧(むし)ろ表面(へうめん)は前(ぜん)将軍(せうぐん)上洛(じようらく)の先鋒(せんぽう)たる事(こと)を出願(しゆつがん)し中途(ちうと)から       機(き)を見(み)て戈(ほこ)を倒(さかさま)にするに如(し)かずと説(と)いたものがあつたのである此(この)時(とき)清軒(せいけん)は𠝏(けん)を按(あん)し大声叱咤(たいせいしつた)して其(その)非(ひ)       を鳴(な)らしたと云(い)ふ事(こと)であるが衆議(しうぎ)遂(つひ)に従軍(じうぐん)に決(けつ)したのである然(しか)るに其(その)夜(よ)々夜(やはん)前(ぜん)将軍(せうぐん)は二三の侍臣(じしん)を従(したが) 《割書:信古亦た竊|に大坂を脱》  へ愴惶(さうくわう)として開陽艦(かいやうかん)に乗(ぜう)じて東帰(とうき)せられたと云(い)ふ密報(みつほう)を得(え)たので藩主(はんしゆ)信古(のぶひさ)は亦(ま)た急(きふ)に帰藩(きはん)の決心(けつしん)をな 《割書:して吉田に|帰る》  し同夜(どうよ)之(これ)も只(たゞ)二 人(にん)の従者(じうしや)を伴(ともな)つたるまゝ極(きは)めて内密(ないみつ)に伊勢路(いせぢ)から遁(のが)れて此(この)吉田(よしだ)に昄(かへ)る事(こと)と成(な)つたので       あるトコロで清軒(せいけん)等(ら)は翌朝(よくてう)黎明(れいめい)従軍(じうぐん)の支度(したく)を整(とゝの)へて出(い)て来(き)た処(ところ)が実(じつ)に寂寞(せきばく)として様子(やうす)が変(かは)つて居(を)るの       である因(よつ)て其事(そのこと)を探知(たんち)するに及(およ)むで憤慨(ふんがい)の情(ぜう)に堪(た)へず清軒(せいけん)は此日(このひ)出陣(しゆつぢん)祝(いはひ)の為(ため)に設(まを)けてあつた三 宝(ほう)を足(そく)       下(か)に掛(か)けて踏(ふ)み摧(くぢ)き仮令(たとへ)一 人(にん)となりても此(この)大坂城(おほさかじよう)に踏(ふ)み止(とゞ)まり一 矢(し)を薩長(さつてう)の兵(へい)に酬(むく)ひねばならぬと云(い)       ふ意気込(いきこ)みを示(しめ)したが其(その)内(うち)に種々(しゆ〴〵)と利害得失(りがいとくしつ)を説(と)くものがあつて余儀(よぎ)なく一 同(どう)は三々五々 之(これ)も伊勢路(いせぢ) 【欄外】    豊橋市史談  (王政復古と吉田藩)                    六百一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(王政復古と吉田藩)                    六百 【本文】 に同志者を勧誘してさらに出府すべきことを約し、清軒はそれより致堂と協議の上で、ついに根岸の仮住まいを引き払い、赤坂に一戸を構えて公然と洋学塾を開いたのである。そして最初その家塾に入ったものは、まず関根致堂、それからはその頃吉田より出府したところの阿部泰蔵君等で、その他にも吉田在の農家で磯部某、尼ヶ崎藩士で三橋某、黒羽の医師磯春作、幕吏井戸某などがあったのである。 (清軒洋学塾を開く)もっとも右の中で阿部泰蔵君のようなものは、今の医学博士大澤健二君等と共に、初め湖南拙庵のところで学び、後に小野湖山について学んだのであるが、関根致堂の出府以来、これ等の人々も相次いで出府することとなったのである。 このような訳で清軒はそれ以来、洋書の教授に余念がなかったのであるが、いよいよ慶応の二年となって世の中は益々騒然として騒がしく、いつどのような変動を来すかも測られないという時に当たり、藩主信古は大いに感ずるところがあって急に清軒を藩に呼び寄せて藩政を補佐させようとしたのである。そこで信古は清軒の父喜左衛門を召してその旨を伝えさせたが、清軒もまたこれをもって自分の志望を達すべしとなしたので、匆々その家塾を閉じることと相成ったのである。 清軒の帰藩 そして早速呉服橋内の藩邸に帰ったが、即日公用人を命ぜられ、かつ藩の近臣中壮年の者に対して蘭学を教授すべきことを命ぜられたのである。しかるに天下の風雲はいよいよ急を告げ、幕府は各藩に令して速やかに大阪に上り将軍を保護すべき旨を命じたのであるが、諸侯の中にはかなり形勢を観望して決然命に応ぜざるものが多く、いずれも逡巡躊躇の有様であったのである。この時清軒は藩主信古に献言して、速やかに台命を奉じ上坂すべしと論じたのであったが、しかし陸行は極めて不便であるというので、幕府の軍艦方に交渉しその一艘を借用し、これに藩主初め一行を搭乗させ、自分は十月をもって陸路先発し、密かに沿道の形勢を探ったのである。 信古の下阪 これは慶応三年の事で、ちょうど将軍慶喜が大政奉還を奏上した当時であったが、藩主信古は清軒の説を容れ、その十一月をもって藩士等と共に幕府の軍艦鳳翔丸に搭じ、品川 【欄外】 発行兼印刷所 豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野■吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千六百九十九号附録    (大正三年六月廿三日発行) 【本文】 を出発したのである。ところが不幸にして暴風に遭った為に十三日間もかかってようやく天保山に達することができたという次第であった。すなわち十二月十三日をもって品川沖を出帆したが(前に十一月となっているのは誤り)、強風に遭った為に伊豆の井田子浦に滞泊し、十八日に至って同所を出帆したところが、また風浪の為に井田子浦へ乗り戻り、二十日夜同所を再び出帆して二十一日には志州の鳥羽へ滞泊し、二十三日にようやく同所を出発して二十五日初めて天保山に達したのである(乗船は翔鶴丸で、前に鳳翔丸としたのもこれも誤りである)。 しかるにご承知のように、その翌慶応四年すなわち明治元年の正月には、かの伏見鳥羽の戦いがあって、前将軍慶喜はその月六日密かに大坂を退き、翌七日天保山沖から開陽艦に乗って海路江戸に逃げ帰ったという訳である。この時における大坂城中の混雑というものは名状すべからざるものがあったのであるが、我が吉田藩においては六日、藩主の面前において重臣会議を開き、大いにその執るべき方針を協議したのである。 (君前会議の激論)当時熱心なる佐幕論者は清軒であったが、中には幕府の頽勢に赴けるを見て、むしろ表面は前将軍上洛の先鋒たることを出願し、中途から機を見て戈を逆さまにするに如かずと説いたものがあったのである。この時清軒は剣を按じ大声叱咤してその非を鳴らしたということであるが、衆議ついに従軍に決したのである。 しかるにその夜々夜、前将軍は二三の侍臣を従え、愴惶として開陽艦に乗じて東帰せられたという密報を得たので、藩主信古もまた急に帰藩の決心をなし、同夜これもただ二人の従者を伴ったるまま極めて内密に伊勢路から逃れて、この吉田に帰ることとなったのである。 (信古もまた密に大坂を脱して吉田に帰る)ところで清軒等は翌朝黎明、従軍の支度を整えて出て来たところが、実に寂寞として様子が変わっているのである。よってその事を探知するに及んで憤慨の情に堪えず、清軒はこの日出陣祝いの為に設けてあった三宝を足下に掛けて踏み砕き、たとえ一人となってもこの大坂城に踏み止まり一矢を薩長の兵に酬いねばならぬという意気込みを示したが、その内に種々と利害得失を説くものがあって、余儀なく一同は三々五々これも伊勢路 【欄外】 豊橋市史談(王政復古と吉田藩)                    六百一

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Imperial Restoration and Yoshida Domain) 600 **Main Text:** to recruit like-minded people and depart for the capital again. From then on, after consultation with Shidō, Seiken finally gave up his temporary residence in Negishi and established a house in Akasaka, publicly opening a Western studies school. The first to enter this private school were Sekine Shidō, then Abe Taizō who had come to the capital from Yoshida around that time, and others including a certain Isobe from a farming family in Yoshida, a certain Mitsuhashi who was a samurai from Amagasaki Domain, Iso Harusaku who was a physician from Kurohane, and a certain Ido who was a bakufu official. (Seiken Opens a Western Studies School) Of course, among these, someone like Abe Taizō had initially studied under Konan Setsuan together with the current Doctor of Medicine Ōsawa Kenji and others, and later studied under Ono Kozan. Since Sekine Shidō's departure for the capital, these people also came to the capital in succession. For this reason, Seiken had devoted himself entirely to teaching Western books from then on, but when Keiō 2 finally arrived, the world became increasingly tumultuous and noisy, and at a time when no one could predict what kind of upheaval might come, Domain Lord Nobuhisa felt greatly moved by something and urgently summoned Seiken back to the domain to assist in domain administration. So Nobuhisa summoned Seiken's father Kizaemon to convey this intention, and Seiken also considered this as a means to achieve his own aspirations, so he hastily closed his private school. Seiken's Return to the Domain: He immediately returned to the domain residence within Gofukubashi, and was appointed as a public affairs official that same day, and was also ordered to teach Dutch studies to the younger men among the domain's close retainers. However, the storms of the realm became increasingly urgent, and the bakufu ordered each domain to quickly go up to Osaka and protect the shogun, but among the feudal lords there were quite a few who observed the situation and resolutely did not respond to the command, all hesitating and wavering. At this time, Seiken advised Domain Lord Nobuhisa that they should quickly obey the imperial command and go up to Osaka, but since overland travel was extremely inconvenient, he negotiated with the bakufu's naval department to borrow one of their ships, had the domain lord and his party board it, and he himself departed overland in October to secretly investigate conditions along the route. Nobuhisa's Journey to Osaka: This was in Keiō 3, exactly when Shogun Yoshinobu had petitioned to return political power to the emperor. Domain Lord Nobuhisa accepted Seiken's proposal, and in November boarded the bakufu warship Hōshōmaru with domain retainers and departed from Shinagawa. **Margin:** Publisher and Printer: Sanyō Printing Partnership Company, 48 Kōnya-machi, Toyohashi City. Editor: Nakanishi Kenzō, Publisher and Printer: Kuno [illegible] **Left Page:** **Margin:** Sanyō Newspaper No. 4699 Supplement (Published June 23, Taishō 3) **Main Text:** However, unfortunately they encountered violent storms and it took thirteen days before they could finally reach Tenpōzan. That is, they departed from off Shinagawa on December 13th (the previous mention of November was an error), but due to encountering strong winds they took shelter at Itakōra in Izu, and when they departed from there on the 18th, due to wind and waves they had to return to Itakōra again, departed from there again on the night of the 20th, took shelter at Toba in Shishū on the 21st, finally departed from there on the 23rd, and first reached Tenpōzan on the 25th (the ship was the Shōkakumaru, and the previous mention of Hōshōmaru was also an error). However, as you know, the following year Keiō 4, that is, Meiji 1, in the first month there was the famous Battle of Fushimi-Toba, and former Shogun Yoshinobu secretly withdrew from Osaka on the 6th of that month, and on the following 7th boarded the Kaiyōkan from off Tenpōzan and fled back to Edo by sea. The confusion within Osaka Castle at this time was indescribable, but in our Yoshida Domain, on the 6th they held a senior retainer meeting in the presence of the domain lord and greatly deliberated on the policy they should adopt. (Heated Arguments in the Lord's Presence) At that time, the ardent pro-bakufu advocate was Seiken, but among them there were those who, seeing the bakufu's decline, argued that they should rather outwardly petition to be the vanguard of the former shogun's journey to the capital, and then midway reverse their position when they saw the opportunity. At this time, Seiken placed his hand on his sword and shouted loudly, denouncing this as wrong, but the assembly finally decided on military service. However, that very night they received secret intelligence that the former shogun had departed eastward in consternation aboard the Kaiyōkan with two or three retainers, so Domain Lord Nobuhisa also suddenly decided to return to his domain, and that same night, also taking only two attendants, escaped very secretly via the Ise route and returned to this Yoshida. (Nobuhisa Also Secretly Escapes Osaka and Returns to Yoshida) However, when Seiken and others came out at dawn the next morning having prepared for military service, the scene was truly desolate and the situation had changed. When they learned of this matter, unable to bear their indignation, Seiken that day kicked and smashed the three ritual stands that had been set up to celebrate the departure for battle, showing his determination that even if he became alone, he would remain in this Osaka Castle and return an arrow to the Satsuma-Chōshū forces. But within that time there were those who explained various advantages and disadvantages, and reluctantly everyone in groups of three and five also took the Ise route **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Imperial Restoration and Yoshida Domain) 601