翻刻
【右丁】
僧都はこれを御らんして仰けるいかにめん
〳〵よく〳〵きこしめせこのわかきみをいま
ちゝうへの御手にかけさせ給ふことまつたく
わたくしにあらすこのしゝうのきみはひとへ
にほとけのけしんにてわたらせ給へはをの〳〵
をふたらく【補陀落=観音の浄土】せかいへみちひきたまはんかため
にかくならせ給ふそやゆめ〳〵かなしみ給ふ
へからすたゝほたいしん【菩提心=無上の悟りを求め、成仏しようとする心】をふかくおこしおはし
ませとそすゝめられけるさるほとに仲太は
一まところ【一間所=縦横とも柱と柱との間一つしかない小さい部屋】にひきこもりものゝこゝろをあんす
【左丁】
るにさてもせひなきことゝもかなそれ人の
しんとしては君の御をんをかうふりさいしを
ふちし身をたてゝ世をあんせんにすこすこ
とそのをんのたかきことはしゆみせん【須弥山=仏教の世界観で、世界の中心、大海に聳える高山】もかきり
御なさけのふかきことはさうかい【蒼海】かへつてあ
さしこのをんをいかてかほうす【報ず】へきされと
も一命をすてゝあやうきをすくひたてま
つることこれ臣のみちなりしかるにそれか
しはいかなるすくせ【宿世】つたなき身なれはわか
とか【咎】をきみにおほせ【負せ=背負わせる】て御いのちをほろほす
現代語訳
【右丁】
僧都はこれをご覧になって仰った。「皆々よ、よくよく聞きなさい。この若君を今、父上の御手にかけさせなさることは、全く私情によるものではない。この師匠の君は、ひとえに仏の化身でいらっしゃるので、お一人お一人を補陀落世界へお導きになるために、このようになられるのである。決して悲しんではならない。ただ菩提心を深く起こしなさい」と勧められた。そうしているうちに、仲太は一間所に引きこもって、物事の道理を思案した。
【左丁】
ああ、なんと仕方のないことであろうか。それ、人の臣下としては、君の御恩を蒙り、妻子を扶持して身を立て、世を安穏に過ごすものである。その御恩の高いことは須弥山も及ばず、御情けの深いことは大海もかえって浅い。この御恩をどうして報いることができようか。されども、一命を捨てて危険を救い立て申し上げること、これこそ臣の道である。しかるに、それがしはどのような宿世の不器用な身であるのか、我が咎を君にお負わせして、御命を滅ぼしてしまう。
英語訳
【Right page】
The bishop observed this and spoke: "Everyone, listen well. Having this young lord now put to death by his father's hand is not at all a matter of personal feeling. This master-lord is entirely a manifestation of Buddha, so he becomes thus in order to guide each and every one of you to the Pure Land of Potalaka. Do not grieve at all. Simply awaken deep bodhicitta (the aspiration for enlightenment)," he advised. Meanwhile, Nakada withdrew to a small one-bay room and contemplated the reasoning behind these events.
【Left page】
Ah, what unavoidable circumstances these are! A person who serves as a retainer receives his lord's beneficence, supports his wife and children, establishes himself, and lives peacefully in the world. The height of such beneficence cannot be matched even by Mount Sumeru, and the depth of such compassion makes even the great ocean seem shallow by comparison. How could one possibly repay such beneficence? Nevertheless, to sacrifice one's life and rescue one's lord from danger—this is the way of a retainer. However, what kind of unfortunate karma from past lives has made this humble person so incompetent that I cause my lord to bear the burden of my faults and destroy his precious life?