翻刻
【左丁】
地震神考
文政十三年にあたるとしの【「にあたるとしの」は書き込み文】七月二つかの【「つかの」は書き込み語】日の申の時ばかりの事【本文に「にて侍りしが」と書かれ、見せ消ちにしてその横に「なりけむ」が列記】なりけむ
山城丹波の両国 大那爲(オホナヰ)ふりにき《割書:地震を|那爲と》【この割書は次に長く続くのでここから一行書きにします】
いふは日本紀武烈天皇の巻に見えたり其那爲
といふに種々の説あれどもいづれを好(ヨシ)と決(サタメ)が
たし今は世俗 地震(〝シン)【「地」の肩に濁点。】といひなれたれば此下那爲
ふるとは書ず字音にてよまむ【本文に「いはむ」とあり「いは」の横に点を打ち見せ消ちにし「よま」が列記されている。】ため地震と書いつけ【「いつけ」は書き込み語】ぬ 【ここで長い割書が終わり】
《割書:見む人其意|を得べし》其 根本(モト)は愛宕(アタゴ)山の邉(ホトリ)より發(オコリ)しと思はれ【本文に「見」次の行頭の「え」を見せ消ちにしている】
て 其所(ソコ)に近き地(◯)【「地」の左横に点が打ってあるので見せ消ちか。或は右に○を記しているので生きているのか】は殊(コト)に暴(キビシ)く【「て」にも見える。】 京師(ミヤコ)の(○)地(○)【「の地」の左横に点が打ってあるので見せ消ちか。或は右に○を記しているので生きているのか】 □ 強(ツヨ)く
震(フリ)て上は有畏(カシコカレ)ども
天皇(スメラミコト)より下は庶民(モロヒト)に至まて貴(タトキ)も賎(イヤシキ)も冨(トメル)も貧(マドシキ)も
現代語訳
【左丁】
地震神考
文政十三年(1830年)七月二日の申の時頃のことであろう。
山城・丹波の両国で大地震が起こった。(地震を「那爲(ナイ)」というのは日本書紀武烈天皇の巻に見える。その「那爲」という語について種々の説があるが、どれが良いと決めがたい。今は世俗では「地震(ヂシン)」と言い慣れているので、この下では「那爲ふる」とは書かず、字音で読むために「地震」と書き付けた。読む人はその意を理解されたい。)
その震源は愛宕山の辺りから発したと思われ、その場所に近い土地は特に激しく、京都では強く震動して、恐れ多くも天皇から下は庶民に至るまで、身分の貴い者も賤しい者も、富める者も貧しい者も
英語訳
[Left page]
A Study of Earthquake Deities
This occurred around the hour of the monkey (3-5 PM) on the second day of the seventh month of Bunsei 13 (1830).
A great earthquake struck both provinces of Yamashiro and Tamba. (The term "nai" for earthquake appears in the Chronicles of Emperor Buretsu in the Nihon Shoki. There are various theories about this word "nai," but it is difficult to determine which is correct. Since people nowadays commonly say "jishin" (earthquake), I will not write "nai furu" below, but will use "jishin" written in Sino-Japanese reading. May readers understand this intention.)
The epicenter appears to have originated from the vicinity of Mount Atago, and the areas close to that location were particularly severe. In the capital, the shaking was strong, and from His Imperial Majesty down to the common people—whether noble or humble, rich or poor—