翻刻
南向の家抔は強く降込北の方は戸障子窓なと
暫も明置れさる位也世上の土蔵の壁又は家々
のしたみなき壁は微塵に成たる也昼前ゟ雨弥つ
よくさなから洪水の如し然処に小日向目白下関口
水道町古河町改代町の方ゟ大水いつくともなく
急に押来り雨は止み水は段々押来る小日向筋
の武家町方寺社民家貴賤老若僧俗男女共に
初は表を流るゝ水を見物して居たるに水急に押
込畳の上へ段々押上候まに家ことに樽なとをならへ
其上へ戸畳なとを積み其上へ登りけれ共猶其上へ
水上り候故棚の上或は天井を破り上り候へ共夫へも
水押上候まに梁又は屋根を下ゟ刀脇指を以て切
破り皆屋根の棟へ上り命を限りに数万の人々
是は如何なる時節の来りて只今水におほれ死なん
こそ是非なけれと何も最期の思ひをなし念仏
を唱るも有又泣かなしむ声は大叫喚もかくやと
思ひしれていたはしかりし有さまとかや数万の男女
泣さけふ声北風に響き加賀屋敷本村迄聞たり