翻刻
【右丁】
幕下ニ属スヘキ由敦賀ノ郡代朝倉中務大輔景恒ヲ以テ望
西近江北近江モ越前ヘ随フ故一乗弥繁昌セリ
朝倉家ハ人王三十七代孝徳天皇ノ皇孫表米 ̄ノ宮ノ御子
荒嶋但馬国ノ大守ト乄朝来郡ニ御坐シ日下部氏 ̄ノ大祖
也荒嶋ヨリ二十二代ノ苗裔朝倉右衛門尉広景ハ斯波
尾張守高経ニ差添ラレ延元ノ比越前ニ来リ阪南郡本
郷黒丸 ̄ノ城ニ居住広景ヨリ家景マデ六代ノ間ハ斯波武衛
家ノ陪臣タリシヲ家景ノ嫡子弾正左衛門尉敏景入道英
林戦功ノ子細有テ公方義政将軍ヨリ越前国ヲ給ハリ
足羽郡一乗ト云所ニ城郭ヲ築キ文明三年五月二十
一日黒丸城ヨリ初テ一乗ニ移リ敏景氏景貞景孝景
義景五代年暦百余歳
【左丁】
永禄六年ノ夏義景明智十兵衛ヲ呼出シ去年加州ノ
一戦ニ鉄砲ヲ以敵ヲ多討シ事褒美アリ鉄砲以前ハ無之
永正ノ比異国ヨリ渡リタル由聞伝レトモ近年マテ世上ニ稀
ナル処ニ名誉ヲ顕ス奇特ノ至ナリ近日鉄砲ノ様子見物
スヘシト命セラル光秀承リ諸役奉行ノ印牧弥六左衛門
ト相談シ安養寺ノ下ナル西ノ馬場ノ辺ニ射垜(アヅチ)ヲ築キ
北 ̄ニ向テ二十五間ニソ構ヘケル一尺四方ノ的ヲ立《割書:云| 々》
四月十九日巳ノ中剋ヨリ放シ始テ午ノ貝吹比マテニ一百
ノ鉛玉ヲ打納黒星ニ中ル数六十八残ル三十二モ的角
ニ当ル此後義景明智ガ才芸ノ程ヲ感シ諸士ノ末子
百人鉄砲 寄子(ヨリコ)ト乄明智ニ預ラル
永禄七年三月二十二日父孝景ノ十七回忌タルニヨリ義景
現代語訳
【右丁】
(義統が朝倉の)幕下に属すべき旨を、敦賀の郡代・朝倉中務大輔景恒を通じて申し入れた。西近江・北近江もまた越前に随ったため、一乗谷はいよいよ繁昌した。
朝倉家は、人王三十七代・孝徳天皇の皇孫・表米の宮の御子、荒嶋(が)但馬国の大守として朝来郡にご座し(たことに始まり)、日下部氏の大祖である。荒嶋より二十二代の苗裔・朝倉右衛門尉広景は、斯波尾張守高経に差し添えられ、延元の頃に越前に来たり、坂南郡本郷・黒丸の城に居住した。広景より家景まで六代の間は斯波武衛家の陪臣であったが、家景の嫡子・弾正左衛門尉敏景入道英林が、戦功の子細あって、公方・義政将軍より越前国を給わり、足羽郡一乗という所に城郭を築き、文明三年五月二十一日に黒丸城より初めて一乗に移った。敏景・氏景・貞景・孝景・義景の五代、年暦百余歳(にわたった)。
【左丁】
永禄六年の夏、義景が明智十兵衛を呼び出し、「去年・加州の一戦において鉄砲をもって敵を多く討ったことを褒美する。鉄砲はそれ以前はなく、永正の頃に異国より渡ってきたと聞き伝えているが、近年まで世上において稀なるところに、名誉を顕したことは奇特の至りである。近日、鉄砲の様子を見物すべし」と命じられた。光秀はこれを承り、諸役奉行の印(筆頭)・牧弥六左衛門と相談し、安養寺の下にある西の馬場のあたりに射垜(あづち)を築き、北に向かって二十五間(ほどの射場)を構えた。一尺四方の的を立て(るなどした)。
四月十九日・巳の中刻より放ち始め、午(の刻)の貝を吹く頃までに、百の鉛玉を打ち納め、黒星に中たる数は六十八、残る三十二も的の角(かど)に当たった。この後、義景は明智の才芸の程に感じ入り、諸士の末子百人を鉄砲寄子として明智に預けた。
永禄七年三月二十二日、父・孝景の十七回忌にあたるため、義景は