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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之10 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之10 - ページ 27

ページ: 27

翻刻

【右丁】 多聞天王(たもんてんわう) 持国天王(ぢこくてんわう) 広目天王(くわうもくてんわう) 【枠外】 三ノ二百一 【左丁】  当寺(たうし)境内(けいたい)の地(ち)は多磨川(たまかは)の流(なかれ)に臨(のそ)み勝景(しようけい)の地(ち)なり富士(ふし)箱根(はこね)秩(ちゝ)  父郡(ふこほり)の遠嶂等(ゑんしやうとう)一望(いちはう)に遮(さへき)り尤(もつとも)幽趣(いうしゆ)あり北(きた)の方(かた)は往古(いにしへ)立川宮内大輔(たてかはくないたいふ)  某(それかし)か城営(しやうえい)の旧址(きうし)にして其(その)形勢(かたち)を存(そん)し懐旧(くわいきう)の情(しやう)を催(もよほ)さしむ又 小田(をた)  原(はら)の北条(ほうてう)幕下(はくか)なりし五十嵐小文治(いからしこふんち)といへる人(ひと)も此地(このち)にありし由(よし)  土人(としん)云傳(いひつた)へたり前(さき)に顕(あらは)せし永禄(えいろく)三年の感状(かんしやう)にも五十嵐市左衛門(いからしいちさゑもん)  といへる名(な)を注(ちゆう)したり何(いつ)れも其(その)氏族(しそく)の徒(ともから)なるへし此故(このゆゑ)に今(いま)も此地(このち)に  五十嵐氏(いからしうち)の人(ひと)尤(もつとも)多(おほ)し《割書:按(あんする)に五十嵐(いからし)小文治は和田合戦(わたかつせん)に朝比奈(あさひな)|義秀(よしひて)に討(うた)れたる人なり是(これ)を混(こん)して土人(としん)》  《割書:あやまり傳(つた)へたる歟(か)》 八幡宮(はちまんくう) 同所二町はかり北(きた)の方(かた)にあり神主(かんぬし)宮崎氏(みやさきうち)奉祀(はうし)す祭神(さいしん)  本多別命(ほんたわけのみこと)一座(いちさ)相伝(あひつたふ)建長(けんちやう)四年癸子八月十五日 勧請(くわんしやう)せりと云  本地佛(ほんちふつ)は阿弥陀如来(あみたによらい)にして黄金佛(わうこんふつ)御丈(みたけ)四寸八分ありて弘法(こうほふ)  大師(たいし)の作(さく)なりといへり《割書:背面(はいめん)は仮面(かめん)の如(こと)く凹(くほか)にして甚(はなはた)古色(こしよく)なり|按(あんする)に世俗(せそく)後光佛(こくわうふつ)と称(しよう)するもの是(これ)なり》然(しか)るに  天正年間(てんしやうねんかん)野火(のひ)の為(ため)に神殿(しんてん)烏有(ういう)となれり此時(このとき)に至(いた)り本尊(ほんそん)失(うせ)

現代語訳

【右丁】 多聞天王 持国天王 広目天王 【左丁】 当寺境内の土地は多摩川の流れに面しており、景勝の地である。富士山、箱根、秩父郡の遠くの山々などが一望でき、とても趣のある場所である。北の方は昔、立川宮内大輔某の城があった旧跡で、その地形を残しており、昔を懐かしむ情を呼び起こす。また小田原の北条氏の家臣であった五十嵐小文治という人もこの土地にいたということを地元の人が語り伝えている。前に示した永禄三年の感状にも五十嵐市左衛門という名前を記しており、いずれもその一族の者であろう。このため今もこの土地に五十嵐氏の人がとても多い。《按ずるに五十嵐小文治は和田合戦で朝比奈義秀に討たれた人である。これを混同して地元の人が誤って伝えているのであろうか》 八幡宮 同じ場所から二町ほど北の方にある。神主宮崎氏が奉仕している。祭神は本多別命一座で、相伝によると建長四年癸丑八月十五日に勧請したという。 本地仏は阿弥陀如来で、黄金仏、御丈四寸八分あり、弘法大師の作であると言われている。《背面は仮面のように窪んでおり、たいへん古い色合いである。按ずるに世俗で後光仏と称するものがこれである》しかし天正年間に野火のために神殿が焼失してしまった。この時に本尊も失われた。

英語訳

【Right Page】 Tamonten'ō (Vaiśravaṇa, Heavenly King of Many Learnings) Jikokuten'ō (Dhṛtarāṣṭra, Heavenly King of Nation-Holding) Kōmokuten'ō (Virūpākṣa, Heavenly King of Wide Eyes) 【Left Page】 The grounds of this temple face the flow of the Tama River and are a place of scenic beauty. Mount Fuji, Hakone, the distant peaks of Chichibu District and others can be viewed in one panorama, making it an extremely charming location. To the north lies the old site where Tatekawa Kunaita'ifu's castle once stood in ancient times, still preserving its topographical features and evoking nostalgic feelings for the past. Also, a person named Igarashi Kobunchi, who was a retainer of the Hōjō clan of Odawara, is said to have lived in this area according to local tradition. The previously shown commendation letter from Eiroku 3 also records the name Igarashi Ichizaemon, who was likely a member of the same clan. For this reason, even today there are many people of the Igarashi family in this area. 《Upon examination, Igarashi Kobunchi was a person killed by Asahina Yoshihide in the Wada Battle. The local people may be confusingly and mistakenly transmitting this information》 Hachiman Shrine Located about two chō north of the same place. The shrine priest of the Miyazaki family serves here. The enshrined deity is Hontawake-no-mikoto, one seat. According to tradition, it was established by invocation on the 15th day of the 8th month of Kenchō 4, year of the Water Ox. The honji buddha is Amida Nyorai, a golden buddha measuring 4 sun and 8 bu in height, said to be the work of Kōbō Daishi. 《The back surface is concave like a mask and has a very ancient patina. Upon examination, this is what people commonly call a "halo buddha"》 However, during the Tenshō period, the shrine hall was destroyed by wildfire. At this time, the principal image was also lost.