翻刻
《割書:称(しよう)し古利根川(ことねかは)とよへり往古(いにしへ)水戸黄門光圀卿(みとくわうもんみつくにきやう)水府(すゐふ)入部(にうふ)の頃(ころ)此(この)中川(なかかは)の|水中(すゐちゆう)にして一の壺(つほ)を得(え)たまひしより年々(とし〳〵)宇治(うち)へ詰茶(つめちや)に登(のほ)せられその器(き)を》
《割書:中川(なかかは)と命(めい)せられたり》
中川やほふりこむてもおほろ月 嵐雪
立石(たていし) 立石村(たていしむら)五方山南蔵院(こはうさんなんそうゐん)といへる真言宗(しんこんしう)の寺境(しきやう)にあり地(ち)
上(しやう)へ顕(あらは)れたる所(ところ)纔(わつか)に壱尺(いつしやく)はかりなり土人(としん)相伝(あひつた)へて石根(せきこん)地(ち)
中(ちゆう)に入事(いること)其際(そのきはま)りをしらすといへり石質(せきしつ)弱(やはらか)にして其色(そのいろ)世間(せけん)
に称(しよう)する鞍馬石(くらまいし)に似(に)たり此石(このいし)寒気(かんき)を帯(おふ)れはこゝかしこ欠(かけ)損(そん)すされとも春暖(しゆんたん)の気(き)を得(う)る時(とき)は又 元(もと)の如(こと)しと云(いへ)り 《割書:右は此石|によりて》
《割書:近郷(きんかう)四五 箇村(かむら)の名(な)とせしか分郷(ふんかう)となりし|より後(のち)は此村(このむら)のみを立石(たていし)とよへりとそ》
熊野権現(くまのこんけん)祠 同 境内(けいたい)艮(うしとら)の隅(すみ)になり今(いま)旧地(きうち)を失(うしな)ふ故(ゆへ)に鎮座(ちんさ)の
年歴(ねんれき)等(とう)を詳(つまひらか)にせすといふ神体(しんたい)は一箇(いつこ)の零石(れいせき)にして 《割書:長(たけ)二尺八寸|はかり囲(かみ)み》【かこみ、のあやまりか】
《割書:本(もと)にて二尺はかり末(すゑ)にて六寸あまり|其形(そのかたち)傘(からかさ)をつほめたるかことし》 其余(そのよ)武州練馬(ふしうねりま)の石神井村(しやくしむら)石神井(しやくしの)
社(やしろ)及(およ)ひ多摩郡(たまこほり)阿佐(あさ)か谷(や)神明(しんめい)等(とう)の神体(しんたい)の零石(れいせき)何(いつ)れも
其形(そのかたち)相似(あひに)たり
《割書:按(あんする)に神書(しんしよ)に皇孫(すめみまこ)の降(くたり)給ふ時(とき)諸部(もろとものを)の神(かみ)の佩(はか)せる頭槌剣(かうつちのつるき)なといへる事あり|此類(このたく)ひのものならん尤(もつとも)天工(てんかう)のものにして世(よ)に石剣(いしけん)と称(しよう)するもの是(これ)なり》
日照山普賢寺(にちせうさんふけんし) 上千葉村(かみちはむら)にあり新義真言宗(しんきしんこんしう)にして本尊(ほんそん)薬師(やくし)
如来(によらい)は仏工(ふつかう)春日(かすか)の作(さく)なり弘安(こうあん)年間(ねんかん)法空阿闍梨(ほふくうあしやり)開基(かいき)す《割書:往古(いにしへ)は|寺院(しゐん)》
《割書:巍々(きゝ)として広大(くわうたい)なり此辺(このへん)に普賢寺村(ふけんしむら)と号(かう)する|地名(ちめい)あるも当寺(たうし)食邑(しよくいう)の旧跡(きうせき)なる故(ゆゑ)にしかよへりとなり》境内(けいたい)に葛西六郎(かさいろくろう)と
いへる人の墳墓(ふんほお)あり
《割書:按(あんする)に葛西(かさい)三郎 清重(きよしけ)の氏族(しそく)なるへし東鑑(あつまかゝみ)に建暦(けんりやく)三年癸酉五月三日 和田(わた)左衛門(さゑもんの)》
《割書:尉(しやう)義盛(よりもり)兵(へい)を起(おこ)して将軍家(しやうくんけ)及(およ)ひ執権(しつけん)義時(よしとき)の亭(てい)をかこむといへる条下(でうか)に葛西》
《割書:六郎といへる名(な)を出(いた)して武蔵国(むさしのくに)の住人(ちゆうにん)と注(ちゆう)せり恐(おそ)らくは此人(このひと)ならん歟(か)》
《割書:当寺(たうし)過去帳(くわこちやう)に建人(けんきう)#1元年三月廿日葛西六郎 常則(つねのり)卒(そつ)栄照院(えいせうゐん)常山(しやうさん)大居士(たいこし)と》
《割書:あり当世(たうせい)の法号(ほふかう)の如(こと)し尤(もつとも)不審(ふしん)少(すくな)からす》#2
真光山善通寺(しんくわうさんせんつうし) 逆井(さかさゐ)渡口(わたしくち)より八九町 東(ひかし)小 松川村(まつかはむら)にあり
一向宗(いつかうしう)西本願寺(にしほんくわんし)に属(そく)せり本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は来迎(らいかう)の像(さう)なり
相伝(あひつた)ふ徃古(そのかみ)千葉介(ちはのすけ)太郎(たらう)宗胤(むねたね)の守本尊(まもりほんそん)にして宗胤(むねたね)没落(ほつらく)
の後(のち)其(その)家臣(かしん)秋元(あきもと)刑部(けうふ)左衛門尉(さゑもんのしやう)胤次(たねつく)と云(いふ)者(もの)是(これ)を伝(つた)へて歳(とし)
現代語訳
(古利根川と称し、往古水戸黄門光圀卿が水戸藩に入部された頃、この中川の水中で一つの壺を得られて以来、毎年宇治へ詰茶として献上され、その器を中川と命名されたという)
中川やほふりこむてもおほろ月 嵐雪
立石 立石村五方山南蔵院という真言宗の寺の境内にある。地上に現れている部分はわずか一尺ほどである。土地の人々は代々伝えて、石の根が地中に入る深さはその限りを知らないと言っている。石質は柔らかく、その色は世間で鞍馬石と称するものに似ている。この石は寒気を帯びるとあちこち欠け損じるが、春の暖かい気候になると再び元のようになると言われている。(この石によって近郷四、五か村の名前としていたが、分郷となってからは、この村のみを立石と呼ぶようになったという)
熊野権現祠 同じ境内の艮(北東)の隅にある。今は旧地を失ったため、鎮座の年歴等を詳しく知ることができないという。神体は一個の霊石で、(高さ二尺八寸ほど、周囲は本で二尺ほど、末で六寸余り、その形は傘を閉じたようである)その他、武州練馬の石神井村石神井社および多摩郡阿佐ヶ谷神明等の神体の霊石も、いずれもその形が似ている。
(按ずるに、神書に皇孫が降臨された時、諸部の神が佩いた頭槌剣などというものがあり、この類いのものであろう。もっとも天然のもので、世に石剣と称するものがこれである)
日照山普賢寺 上千葉村にあり、新義真言宗で本尊薬師如来は仏師春日の作である。弘安年間に法空阿闍梨が開基した。(往古は寺院が巍々として広大であった。この辺りに普賢寺村と号する地名があるのも、当寺の食邑の旧跡であるためそう呼ばれるようになったという)境内に葛西六郎という人の墳墓がある。
(按ずるに、葛西三郎清重の氏族であろう。吾妻鏡に建暦三年癸酉五月三日、和田左衛門尉義盛が兵を起こして将軍家および執権義時の邸を囲んだという条下に、葛西六郎という名前を出して武蔵国の住人と注記している。おそらくはこの人であろうか。当寺の過去帳に建久元年三月二十日葛西六郎常則卒、栄照院常山大居士とある。当世の法号のようであり、もっとも不審は少なくない)
真光山善通寺 逆井の渡口より八、九町東の小松川村にある。一向宗西本願寺に属している。本尊阿弥陀如来は来迎の像である。相伝によると往古千葉介太郎宗胤の守本尊で、宗胤没落の後、その家臣秋元刑部左衛門尉胤次という者がこれを伝えて年を…
英語訳
(It was called the old Tone River, and long ago when Mito Kōmon Mitsukuni entered his domain, he obtained a pot from the waters of this Nakagawa River. From that time on, it was annually sent up as refined tea to Uji, and that vessel was named Nakagawa.)
"Nakagawa ya / hofuri komu te mo / oboro tsuki" - Ransetsu
Tateishi: Located in the precincts of Gohōsan Nanzō-in, a Shingon sect temple in Tateishi Village. The part that appears above ground is only about one shaku (foot). The local people have passed down the tradition that the depth to which the stone's root extends into the ground is unknown. The stone quality is soft, and its color resembles what is commonly called Kurama stone. This stone chips and breaks here and there when it bears cold air, but when it receives the warmth of spring, it returns to its original state. (This stone gave its name to four or five neighboring villages, but after they became separate villages, only this village came to be called Tateishi.)
Kumano Gongen Shrine: Located in the northeastern corner of the same precincts. Since the original site has now been lost, the year of enshrinement and other details cannot be determined precisely. The sacred object is one sacred stone (about 2 shaku 8 sun tall, with a circumference of about 2 shaku at the base and over 6 sun at the top, shaped like a closed umbrella). Similarly, the sacred stones that are the divine bodies at Shakujii Shrine in Shakujii Village, Nerima, Musashi Province, and Shinmei Shrine in Asagaya, Tama District, all have similar shapes.
(According to research, divine texts mention that when the imperial grandson descended, the gods of various clans wore head-mallet swords and such. These are probably of that type. They are most certainly natural objects, what the world calls stone swords.)
Nisshōzan Fugen-ji Temple: Located in Kami-Chiba Village, it belongs to the Shingi Shingon sect, and its principal image, Yakushi Nyorai, is the work of the Buddhist sculptor Kasuga. It was founded by Hōkū Ajari during the Kōan period. (In ancient times, the temple buildings were magnificent and extensive. There is a place name called Fugen-ji Village in this area because it is the old site of this temple's domain.) In the precincts is the tomb of a person called Kasai Rokurō.
(According to research, he was probably from the clan of Kasai Saburō Kiyoshige. In the Azuma Kagami, under the entry for the third day of the fifth month of Kenryaku 3, when Wada Saemon-no-jō Yoshimori raised troops to surround the residences of the Shogun family and Regent Yoshitoki, the name Kasai Rokurō appears with a note that he was a resident of Musashi Province. This is probably the same person. In this temple's death register, it states: "Kenkyū 1, third month, twentieth day, Kasai Rokurō Tsunenori died, Eishō-in Jōzan Daigoji." This is like a modern Buddhist posthumous name, though there are considerable doubts about it.)
Shinkōzan Zentsū-ji Temple: Located in Komatsu-gawa Village, eight or nine chō east of Sakasai ferry crossing. It belongs to the Ikkō sect Nishi Hongan-ji. The principal image, Amida Nyorai, is a statue of welcoming descent. According to tradition, it was originally the protective principal image of Chiba-no-suke Tarō Munetane, and after Munetane's downfall, his retainer Akimoto Gyōbu Saemon-no-jō Tanetsugu transmitted it through the years...