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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之5 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之5 - ページ 18

ページ: 18

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【右丁】 佐々木明神社(さゝきみやうじんのやしろ) 養光寺(やうくわうし)の境内(けいたい)本堂(ほんたう)の右(みき)に並(なら)へり此地(このち)の鎮守(ちんしゆ)  にして宗参寺(しうさんし)より奉祀(ほうし)す祭神(さいしん)近江(あふみ)の佐々木明神(さゝきみやうしん)に相同(あひおな)  しきといふ相殿(あひてん)に高綱(たかつな)の霊(れい)を崇(あか)むるとそ相傳(あひつた)ふ高綱(たかつな)  鎌倉(かまくら)右大将家(うたいしやうけ)の命(めい)を蒙(かふむ)り此(この)河崎(かはさき)の地(ち)に山王宮(さんわうくう)《割書:堀(ほり)の内(うち)|山王(さんわう)是(これ)》  《割書:なら|ん》建立(こんりふ)の奉行(ふきやう)たりしかは其縁(そのえむ)を採(とり)て間宮信盛(まみやのふもり)先霊(せんれい)の  神徳(しんとく)を追慕(つゐほ)し江州(こうしう)の本祠(ほんし)を摸(うつ)して此地(このち)に當社(たうしや)を創(さう)  立(りふ)すと云九月十九日を以て祭日(さいにち)とす 勝福寺舊址(しようふくしのきうし) 其(その)廃跡(はいせき)今(いま)知(しる)へからす然(しかる)に南総(なんさう)望陀郡(まうたこほり)奈良(なら)  輪邑(わむら)の東(ひかし)坂戸市場(さかといちは)と号(かう)する地(ち)に坂戸明神(さかとみやうしん)と称(しよう)する  社(やしろ)あり其(その)社前(しやせん)に一口の梵鐘(ほんしやう)を懸(かく)る銘(めい)に武州(ふしう)河崎(かはさき)庄内(しやうない)  勝福寺(しようふくし)とありて弘長(こうちやう)三年癸亥二月八日/大檀那(たいたんな)禅定(せんちやう)  比丘十阿(ひくしうあ)及(およ)ひ壹岐守泰綱(いきのかみやすつな)等(とう)の名(な)を注(ちゆう)せり按(あんする)に乱世(らんせい)の  頃(ころ)陣鐘(ちんかね)抔(なと)に奪(うは)ひ取(と)られしより其(その)地(ち)にはあるならん歟(か) 【左丁】    《割書:按(あんする)に東鑑(あつまかゝみ)に文應(ふんおう)二年辛酉/此年(このとし)二月/改元(かいけん)ありて弘長(こうちやう)と号(かう)す五月十三日|甲戌今日/晝番(ひるはん)の間(あひた)廣御所(ひろこしよ)において佐々木壹岐前司泰綱(さゝきいきのせんしやすつな)と渋谷(しふや)》    《割書:太郎右衛門尉武重(たらうゑもんのせうたけしけ)と口論(こうろん)に及(およ)ふと云々/然(しか)る時(とき)は鐘(かね)の銘(めい)に泰綱(やすつな)とあるは|東鑑(あつまかゝみ)に記(しる)す所(ところ)の壹岐前司(いきのせんし)の事なるへし此(この)泰綱(やすつな)は四郎高綱(しらうたかつな)の甥(をひ)にして》    《割書:信綱(のふつな)か二/男(なん)なり|》 観音堂(くわんおんたう) 市場村(いちはむら)街道(かいたう)より左(ひたり)の方(かた)一心山(いっしんさん)専念寺(せんねんし)といへる浄(しやう)  刹(せつ)に安置(あんち)せり本尊(ほんそん)千手大悲(せんしゆたいひ)の像(さう)は寛朝(くわんてう)の作(さく)御丈(おんたけ)四寸  ありて紫式部(むらさきしきふ)の念持佛(ねんちふつ)なりと云傳(いひつた)ふ承應年間(しやうおうねんかん)近江(あふみの)  國(くに)石山観音(いしやまくわんおん)の辺(へん)に老嫗(おいおうな)一人/住(すめ)り或時(あるとき)西國行脚(さいこくあんきや)の僧(そう)  愚蔵坊照西(くさうはうせうさい)といふ沙門(しやもん)此(この)老嫗(おいおうな)かもとに宿(しゆく)せし夜(よ)老嫗(おいおうな)の  病悩(ひやうのう)を救(すく)ふ其(その)報(むくひ)として此(この)霊像(れいさう)を授(さつ)く後(のち)故(ゆゑ)ありて當(たう)  寺(し)に安置(あんち)なし奉(たてまつ)るといへり毎月(まいけつ)十七日には参詣(さんけい)の人/多(おほ)し  本堂(ほんたう)に掲(かく)る所(ところ)の額(かく)に一心山(いっしんさん)と書(しよ)せしは縁山(えんさん)前大僧正(さきのたいそうしやう)  雲外(うんけ)の筆(ふて)なり 鶴見川(つるみかは) 海道(かいたう)に架(わた)す所(ところ)の橋(はし)の号(かう)も又(また)鶴見橋(つるみはし)と呼(よ)へり

現代語訳

【右丁】 佐々木明神社 養光寺の境内、本堂の右に並んでいる。この地の鎮守であり、宗参寺が祭祀を行っている。祭神は近江の佐々木明神と同じだという。相殿には高綱の霊を祀っているとも伝えられている。高綱は鎌倉右大将家(源頼朝)の命を受けて、この川崎の地に山王宮(堀の内山王がこれである)を建立する奉行を務めたので、その縁を採って間宮信盛が先祖の霊の神徳を慕い、江州(近江)の本社を模してこの地に当社を創立したという。九月十九日を祭日としている。 勝福寺旧跡 その廃跡は今では分からない。しかし南総(安房)望陀郡奈良輪村の東、坂戸市場と呼ばれる地に坂戸明神という社がある。その社前に一口の梵鐘を掛けている。銘には「武州川崎庄内勝福寺」とあり、弘長三年癸亥二月八日、大檀那禅定比丘十阿および壱岐守泰綱等の名を記している。思うに乱世の頃、陣鐘などに奪い取られてその地にあるのであろうか。 【左丁】    思うに『吾妻鏡』に「文応二年辛酉、この年二月に改元があって弘長と号す。五月十三日甲戌、今日昼番の間、広御所において佐々木壱岐前司泰綱と渋谷太郎右衛門尉武重とが口論に及んだ」とある。そうすると鐘の銘にある泰綱とは『吾妻鏡』に記す所の壱岐前司のことであろう。この泰綱は四郎高綱の甥で、信綱の二男である。 観音堂 市場村街道より左の方、一心山専念寺という浄土宗寺院に安置されている。本尊千手大悲の像は寛朝の作で、御丈四寸あり、紫式部の念持仏であると言い伝えられている。承応年間、近江国石山観音のあたりに老嫗が一人住んでいた。ある時、西国行脚の僧愚蔵坊照西という沙門がこの老嫗のもとに宿泊した夜、老嫗の病気を救った。その報いとしてこの霊像を授かった。後に事情があって当寺に安置することになったという。毎月十七日には参詣の人が多い。本堂に掲げる額に「一心山」と書いたのは縁山前大僧正雲外の筆である。 鶴見川 街道に架かる橋も鶴見橋と呼ばれている。

英語訳

【Right page】 Sasaki Myōjin Shrine: Located alongside the right side of the main hall within the precincts of Yōkō-ji Temple. This is the tutelary shrine of this area, with religious services conducted by Shūsan-ji Temple. The deity enshrined is said to be the same as Sasaki Myōjin of Ōmi Province. It is also said that the spirit of Takatsuna is enshrined in the subsidiary shrine. Takatsuna, having received orders from the Kamakura Right General (Minamoto no Yoritomo), served as magistrate for the construction of Sannō Shrine in this area of Kawasaki (this is the Sannō of Hori-no-uchi). Taking this connection, Mamiya Nobumori, longing for the divine virtue of his ancestral spirits, modeled after the main shrine in Gōshū (Ōmi) and established this shrine in this location. September 19th is observed as the festival day. Former site of Shōfuku-ji Temple: Its ruined site is now unknown. However, in Nansō (Awa) Mōda District, in a place called Sakado Market to the east of Naraowa Village, there is a shrine called Sakado Myōjin. A temple bell hangs in front of this shrine. The inscription reads "Shōfuku-ji Temple, Kawasaki-shō, Bushū," dated the 8th day of the 2nd month of Kōchō 3, year of the Metal Boar, with the names of Great Patron Zenjō Bhikku Jūa and Iki-no-kami Yasatsuna among others. I suppose that during the turbulent times, it may have been seized as a battle bell and ended up in that location. 【Left page】 According to the Azuma Kagami: "Bun'ō 2, year of the Metal Rooster. In the 2nd month of this year there was a change of era name to Kōchō. On the 13th day of the 5th month, day of the Wood Dog, today during the daytime watch, at the Hiro Palace, Sasaki Iki-no-zenji Yasatsuna and Shibuya Tarō-uemon-no-jō Takeshige got into an argument." If this is so, then the Yasatsuna mentioned in the bell inscription must refer to the Iki-no-zenji recorded in the Azuma Kagami. This Yasatsuna was the nephew of Shirō Takatsuna and the second son of Nobitsuna. Kannon Hall: Located at Isshin-san Sennen-ji Temple, a Pure Land sect temple to the left of the Ichiba Village highway. The image of the main deity, Thousand-armed Kannon, is said to be the work of Kanchō, measuring four sun in height, and is claimed to be the devotional Buddha statue of Murasaki Shikibu. During the Jōō era, an old woman lived alone near Ishiyama Kannon in Ōmi Province. One night, when a monk named Guzōbō Shōsai, traveling on pilgrimage to western provinces, stayed with this old woman, he cured her illness. In reward, she gave him this sacred image. Later, due to certain circumstances, it came to be enshrined at this temple. Many people visit on the 17th of each month. The plaque hanging in the main hall inscribed with "Isshin-san" was written by former Grand Priest Enzan Ungai. Tsurumi River: The bridge spanning the highway is also called Tsurumi Bridge.