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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之5 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之5 - ページ 39

ページ: 39

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【右丁】  京都記行   浮世かなかは(◦◦◦◦)る淵瀬は人こと純【のヵ】心の水にふみまよひぬる  澤庵  此地(このち)は太平記(たいへいき)にも正平(しやうへい)七年の閏(うるふ)二月廿日の武蔵野合戦(むさしのかつせん)に  新田義興(につたよしおき)脇屋義治(わきやよしはる)兄弟(けうたい)終(つひ)に二百/餘騎(よき)に打(うち)なされ落行(おちゆく)  へき方(かた)もなし討死(うちしに)すへき命(いのち)なれは鎌倉(かまくら)へ打入(うちいつ)て足利(あしかゝ)  左馬頭(さまのかみ)に逢(あふ)て命(めい)を失(うしな)はゝやと夜半(やはん)過(すく)る程(ほと)に関戸(せきと)を過(すき)給ひ  途中(とちゆう)にして石堂入道(いしたうにふたう)三浦助(みうらのすけ)等(ら)の勢(せい)に行逢(ゆきあ)ひ給ひ軈(やか)て  此(この)勢(せい)と打連(うちつれ)て神奈河(かなかは)に著(つき)て鎌倉(かまくら)の様(さま)を問(とひ)給ふ由(よし)みゆ  又/鎌倉大草紙(かまくらおほさうし)にも永享(えいきやう)十二年四月六日/上杉修理太夫持朝(うえすきしゆりのたいふもちとも)  伊豆國(いつのくに)を立(たつ)て山(やま)の内(うち)の庄(しやう)に帰参(きさん)し長尾郷(なかをのかう)に滞留(たいりう)せしめ  同五月十一日/神奈川(かなかは)へ出勢(しゆつせい)あるよしみえたり 上無川(かみなしかは) 本宿(ほんしゆく)中(なか)の町(まち)と西(にし)の町(まち)との間(あひた)の道(みち)を横(よこ)きりて流(なか)るゝ  小溝(こみそ)を号(なつ)く此所(このところ)に架す橋(はし)を上無橋(かみなしはし)と称(しよう)す《割書:橋(はし)の長(なか)さ|二間にたらす》 【左丁】  常(つね)に水(みつ)涸(かれ)て僅(わつか)の小流(しやうりう)なり水源(みなかみ)定(さたか)ならさる故(ゆゑ)に上無川(かみなしかは)  と云(いふ)則(すなはち)神奈川(かなかは)の地名(ちめい)の興(おこ)る所以(ゆゑん)にして後世(こうせい)美志(みし)の二  字(し)を略(りやく)してかな川(かは)とは云(いひ)けるなり品川(しなかは)も亦(また)下無川(しもなしかは)なり  しを是(これ)も毛志(もし)の二/字(し)を省(はふ)きてかく呼(よひ)ける由(よし)寛永(くわんえい)五年  齊藤徳元(さいとうとくけん)の紀行(きかう)にみえたり《割書:小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の分限帳(ふんけんちやう)に|矢野彦六(やのひころく)といふ人/武州(ふしう)神奈(かな)》  《割書:川(かは)にて南条(なんてう)高崎(たかさき)の|地(ち)を領(りやう)すとあり》 海運山(かいうんさん)能満院(のうまんゐん) 満願寺(まんくわんし)と号(かう)す本宿(ほんしゆく)荒井町(あらゐまち)道(みち)より右側(みきかは)に  あり古義(こき)の真言宗(しんこんしう)にして鳥山三會寺(とりやまさんゑし)に属(そく)せり開基(かいき)は  内海光善(うつみみつよし)といへる人なり開山(かいさん)は重運(てううん)と号(かう)す本尊(ほんそん)虚空(こくう)  蔵菩薩(さうほさつ)は海中(かいちゆう)より出現(しゆつけん)ありし三寸九分の霊像(れいさう)なり  相傳(あひつたふ)正安(しやうあん)元年己亥八月十三日/此地(このち)の漁者(きよしや)に内海新四郎(うつみしんしらう)  光善(みつよし)といへるあり此日(このひ)海中(かいちゆう)に網(あみ)を沈(おろ)して此(この)霊像(れいさう)を得(え)  たり然(しかる)に本尊(ほんそん)光善(みつよし)の一/女子(によし)に託(たく)して曰(いは)く我(われ)は是(これ)房州(はうしう)

現代語訳

【右丁】 京都記行より 浮世である神奈川の深い淵瀬は、人々の心の水に踏み迷わせるものである  澤庵 この地は太平記にも記されている。正平七年(1352年)の閏二月二十日の武蔵野合戦において、新田義興・脇屋義治兄弟はついに二百余騎に討たれ、落ち行く先もなくなった。討死すべき命であれば、鎌倉へ打ち入って足利左馬頭(足利尊氏)に会って命を失おうと、夜半過ぎ頃に関戸を通り過ぎた。途中で石堂入道・三浦助らの勢力と行き会い、すぐにこの勢力と連れ立って神奈川に着いて鎌倉の様子を尋ねた様子が見える。 また、鎌倉大草紙にも、永享十二年(1440年)四月六日、上杉修理太夫持朝が伊豆国を立って山内の庄に帰参し、長尾郷に滞在し、同年五月十一日に神奈川へ出陣したことが記されている。 上無川(かみなしがわ) 本宿中の町と西の町との間の道を横切って流れる小さな溝のことを言う。この場所に架けられた橋を上無橋と称する(橋の長さは二間に足らない)。 【左丁】 常に水が枯れて、わずかな小流である。水源が定かでないため上無川と言う。これが神奈川の地名が起こった理由であり、後世「無し」の二字を略してかな川と言うようになった。品川も同様に下無川であり、これも「無し」の二字を省いてこのように呼ぶようになったと、寛永五年(1628年)齊藤徳元の紀行に記されている(小田原北条家の分限帳には矢野彦六という人が武州神奈川にて南条高崎の地を領するとある)。 海運山能満院 満願寺と号する。本宿荒井町の道より右側にある。古義の真言宗で鳥山三會寺に属している。開基は内海光善という人である。開山は重運と号する。本尊の虚空蔵菩薩は海中より出現した三寸九分の霊像である。 伝承によると、正安元年(1288年)己亥八月十三日、この地の漁師で内海新四郎光善という者がいた。この日海中に網を下ろしてこの霊像を得た。その時本尊が光善の一人娘に託して言うには「私は房州(安房国)の...」 【左丁】 常に水が枯れて、わずかな小流である。水源が定かでないため上無川と言う。これが神奈川の地名が起こった理由であり、後世「無し」の二字を略してかな川と言うようになった。品川も同様に下無川であり、これも「無し」の二字を省いてこのように呼ぶようになったと、寛永五年(1628年)齊藤徳元の紀行に記されている(小田原北条家の分限帳には矢野彦六という人が武州神奈川にて南条高崎の地を領するとある)。 海運山能満院 満願寺と号する。本宿荒井町の道より右側にある。古義の真言宗で鳥山三會寺に属している。開基は内海光善という人である。開山は重運と号する。本尊の虚空蔵菩薩は海中より出現した三寸九分の霊像である。 伝承によると、正安元年(1288年)己亥八月十三日、この地の漁師で内海新四郎光善という者がいた。この日海中に網を下ろしてこの霊像を得た。その時本尊が光善の一人娘に託して言うには「私は房州(安房国)の...」

英語訳

【Right page】 From Kyōto Kikō (Kyoto Travel Record): The floating world of Kanagawa's deep pools and rapids causes people to lose their way in the waters of their hearts - Takuan This place is also recorded in the Taiheiki. During the Musashino Battle on the 20th day of the intercalary second month of Shōhei 7 (1352), the brothers Nitta Yoshioki and Wakiya Yoshiharu were finally defeated by over 200 cavalry and had nowhere to flee. Thinking that if they were destined to die in battle, they might as well enter Kamakura and meet Ashikaga Samanosuke (Ashikaga Takauji) to lose their lives, they passed through Sekido after midnight. On the way, they encountered the forces of Ishidō Nyūdō, Miura-no-suke and others, immediately joined with these forces, arrived at Kanagawa, and inquired about the situation in Kamakura. Also, in the Kamakura Ōsōshi, it records that on the 6th day of the 4th month of Eikyō 12 (1440), Uesugi Shurinotayu Mochitomo left Izu Province, returned to Yamanouchi-no-shō, stayed in Nagao-gō, and on the 11th day of the 5th month of the same year, advanced to Kanagawa. Kaminashi River - This refers to a small ditch that flows across the road between Nakanomachi and Nishinomachi in Honshuku. The bridge built at this location is called Kaminashi Bridge (the bridge is less than two ken in length). 【Left page】 The water constantly runs dry, leaving only a small stream. Because the water source is uncertain, it is called Kaminashi River (Upper Waterless River). This is the origin of the place name Kanagawa, and in later times, the two characters "nashi" (waterless) were abbreviated to become "Kana River." Shinagawa is similarly "Shimonashi River" (Lower Waterless River), and this too came to be called so by omitting the two characters "nashi," as recorded in Saitō Tokugen's travel record from Kan'ei 5 (1628). (In the Odawara Hōjō family's allotment register, it states that a person named Yano Hikoroku held land in Nanjō Takasaki in Bushū Kanagawa.) Kaiun-zan Nōman-in - Called Manganji Temple. Located on the right side of the road from Honshuku Arai-machi. It belongs to the old school of Shingon Buddhism and is affiliated with Toriyama Sankai-ji. The founder was a person named Utsumi Mitsuyoshi. The founding priest was called Jūun. The principal image, Kokūzō Bosatsu (Ākāśagarbha Bodhisattva), is a miraculous statue of 3 sun and 9 bu that appeared from the sea. According to tradition, on the 13th day of the 8th month of Shōan 1 (1288), there was a fisherman of this area named Utsumi Shinshirō Mitsuyoshi. On this day, he lowered his net into the sea and obtained this miraculous statue. Then the principal image possessed Mitsuyoshi's daughter and said, "I am from Bōshū (Awa Province)..."