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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之5 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之5 - ページ 9

ページ: 9

翻刻

【右丁】 末廣松(すゑひろまつ) 【図】 【枠内】末廣松 【左丁】  庭中(ていちゆう)林泉(りんせん)の儲抔(まうけなと)ありて橋(はし)の傍(かたはら)に下戸(けこ)の輩(ともから)渡(わたる)へからすと  注(ちゆう)せし制札(せいさつ)を建(たて)たりしとなり酒客(しゆかく)宴飲(えんいん)の旧跡(きうせき)は今(いま)田園(てんゑん)と  なる此松(このまつ)も底廣(そこひろ)か愛樹(あいしゆ)にして末廣(すゑひろ)とは名(な)つけたりしといふ  此家(このいへ)にも酒戦(しゆせん)の頃(ころ)用(もち)ひたりしといふ大盃(おほさかつき)あり《割書:酒(さけ)七/合(かふ)をうくる|といふ盃中(はいちゆう)金泥(きんてい)》  《割書:をもて猩々(しやう〳〵)の形(かたち)を|描金(まきゑ)せしものなり》箱(はこ)の蓋(ふた)に水鳥底廣盃(みつとりそこひろさかつき)と題(たい)し又(また)左(さ)の如(こと)くの  發句(ほつく)を注(ちゆう)せり     大師河原にあそひて樽次といふものゝ     孫にあふ事   其蔓や西瓜上戸の花の種   沾圃   《割書:按(あんする)に底廣(そこひろ)を樽次(たるつく)と思(おも)ひ誤(あやま)りたりしとおほし|》 鹽濵(しほはま) 同所(とうしよ)南(みなみ)の方の海濵(かいひん)なり寛文(くわんふん)九年己酉/叶栄雲(かなふえいうん)  及(およ)ひ泉市右衛門(いつみいちゑもん)といへる者(もの)開初(ひらきはしめ)たりと云(いふ)依(よつ)て今(いま)も大師河原(たいしかはら)  川中島(かはなかしま)稲荷新田(いなりしんてん)等(とう)の村々(むら〳〵)塩(しほ)を製(せい)するを以(もつ)て産業(さんきやう)とする  もの少(すくな)からす此地(このち)風光(ふうくわう)甚(はなはた)佳景(かけい)なり

現代語訳

【右丁】 末広松 【図】 【枠内】末広松 【左丁】 庭の中には林泉の設備などがあり、橋のそばに「下戸の者どもは渡ってはならない」と注意書きした制札を立てていたという。酒客が宴会を開いた旧跡は、今は田園となっている。この松も底広が愛した樹木で、末広と名付けたということである。 この家にも酒戦の頃に用いたという大盃がある。《割書:酒七合を受けるという。盃の中に金泥で》《割書:猩々の形を蒔絵で描いたものである》箱の蓋には「水鳥底広盃」と題し、また次のような発句を記している。  大師河原に遊びて樽次という者の  孫に会うこと 其蔓や西瓜上戸の花の種   沾圃 《割書:考えるに、底広を樽次と思い違いをしたのであろう》 塩浜 同所の南の方の海浜である。寛文九年己酉に叶栄雲および泉市右衛門という者が開発を始めたという。そのため今でも大師河原、川中島、稲荷新田等の村々で塩を製造することを産業とする者が少なくない。この地の風光は非常に美しい景色である。