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署に呼出して。彼の蟇口を還付した。
●清水満之助の支店類焼を免かる
吉田町二丁目にて焼止まりし火先は全く同地請負業清水満之助
が 火勢( くわせい)の 猛烈( まうれつ)を 見(み)ると共に。東京の本店に 急電(きふでん)を発し。消防夫
数十名を 呼寄(よびよ)せ。四千円の 懸賞(けんせう)にて 必死(ひつし)に防ぎし為め。幸ひに
同店の家屋は猛火の中に包まれながら無事なるを得たり。
●焼失地の地価
伊勢佐木町一丁目より吉田町一丁目辺は。地価最も高く。一坪
二百七八十円二丁目より漸次安く。次は柳町。次は福富町に
て。能き場所は一坪七十円内外。次は蓬莱町。次は賑町。梅ケ
枝町次は久方町。足曳町。雲井町。若葉町。浪花町。姿見町。
若竹町にて。此辺は能き処にても。一坪四五十円に過ず。安き
処は二三十円なり。
●材木及ひ手間賃
火災以来横浜の諸物価は平生より二割方の 騰貴(とうき)となり。 中(なか)にも
差当(さしあた)りての必需品、 板(いた)、丸太(まるた)、梁木(はりき)等は。二割若くは三割の 高直(たかね)
を 顕(あらは)し之と同時に。大工、左官、畳職、石屋等の 手間賃(てまちん)も同様
二割若くは三割の増しとなり。尚は 人不足(ひとふそく)を感せしといふ。
●家賃の競騰
罹災者の多くは。親戚及び知己を 便(たよ)りて 避難(ひなん)せるもの多かりし
が。何時まで斯てあるべきにあらねば。何れも関内に空家を索
めんとするもの多く。 忽(たちま)ち 供給(きようきう)に不足を告け。 戸部(とべ)及び神奈川
方面に至るまで今は 殆(ほと)んど 空家(あきや)なく。 適々(たま〳〵)あるも十円の家が十
五円乃至十七円に昇り居るの 有様(ありさま)なりき。
●衣裳屋の損失
今回の火災に罹(かゝ)りたる五 劇場(げきぢやう)は。当時附属品一点をも持出す。 暇(いとま)
もなかりし事とて。 大道具(おほだうぐ)、小道具(こだうぐ)其他の 損失少(そんしつすく)なからず中にも
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意外なるは。 衣裳屋(いしやうや)の 損耗(そんもう)にて。何れも 衣裳(いしやう)は。同地齊藤の持
ちなるが同家は東京に於ても歌舞伎座其他の 大劇場(だいげきじやう)二三を受持
ち居る程なれば。品物も多く 随(したがつ)て損失(そんしつ)は莫大にて。五座を通じ
て 焼失衣裳(せうしついしやう)約金三万五千円以上なりと云ふ。
●盗難品多し
火災後伊勢佐木町其他各警察署へ。 罹災者(りさいしや)より申出でたる 物品(ぶつひん)
紛失届(ふんしつとゞけ)。 盗難届(たうなんとどけ)は。其数殆んど四百以上に及びたるが。各署刑
事係が 熱心探偵(ねうしんたんてい)の 結果(けつくわ)寿町署にて捕へたる盗人十三名に及び。
其他の各署にても都合二十余名を捕へたるよし。
●近傍営業者の休業
十三日は罹災地附近の湯屋料理店(ゆやれうりてん)等は 大抵休業(たいていきうげふ)し。氷は品切れ
人力車夫は。 疲労( ひらう)の為め。 求( もと)めに 応(おう)ずる者少なく。為めに 非常(ひじやう)
の 賃銭(ちんせん)を 貪(むさぼ)れるが翌日よりは旧に復したり。
●横浜大火跡実見記 蕉 雨 生
明治三十二年八月十二日夜。 烈風(れつぷう)の際。南方に当り一転 紅(くれなゐ)を流
すが如き色あり。人呼て曰く。品川辺の出火なるべし。 否(いな)。 羽根(はね)
田辺(だへん)なるべしと。翌朝新聞紙を閲(けみ)すれば。昨夜横浜に 未曾有(みそうの)
大火起り。殆むと全市の四分の一を 焼燼(せうじん)し。火未だ消えずと。
午後に至り各新聞社にては号外を発し。 爾後陸続(じごりくぞく)報知する所あ
りき。是に於て。同十五日画工山本松谷と共に 実況視察(じつきやうしさつ)として
同日午前五時三十分 相携( あおひたづさ)へて新橋停車場に到れば。乗客の雑沓
いふべからず。其談する所の多くは横浜の大火にして。何れも
罹災者(りさいしや)を 慰問(ゐもん)せむが為め 暁天(げうてん)を冒して来りし者なり。同四十五
分発車す。毎車人を以て 充溢(じういつ)し坐席を得ずして起立(きりつ)するものあ
り乗客 互( たが)ひに語りて曰く。日出れば乗客 廑集(きんしう)して 容易(ようゐ)に乗るこ
と能はざるを 慮(をもんばか)り。夙起して来りしに。巳に斯くの如し。何ぞ夫