翻刻
【右丁 絵図】
子明神(ねのみやうしん)
【左丁】
當寺(たうし)に安置(あんち)するといへり靈験(れいけん)照々(しやう〳〵)たるか故(ゆゑ)に詣人(けいしん)常(つね)に絶(たへ)す
正一位(しやういちゐ)子明神(ねのみやうしん)社 二子(ふたこ)街道(かいたう)下馬牽澤(しもうまひきさわ)邑道(むらみち)より左(ひたり)の方(かた)耕田(かうてん)を
隔(へた)てゝ丘(をか)の上(うへ)にあり別當(へつたう)は天台宗(てんたいしう)宿山村(しゆくやまむら)壽福寺(しゆふくし)より兼帯(けんたい)す
馬牽澤(うまひきさわの)𦾔(きう)跡(せき) 同所 子明神(ねのみやうしん)の前(まへ)今(いま)田畑(たはた)となれる地(ち)の旧名(きうしやう)なりと
いへとも今(いま)は上目黒(かみめくろ)世田(せた)ケ(か)谷(や)へ跨(またか)り都(すへ)て上中下(しやうちやうけ)と三(みつ)に分(わか)れたる
邑名(いうみやう)となれり里諺(りけん)に云 文治(ふんち)年間(ねんかん)頼朝卿(よりともきやう)奥州(あうしう)征伐(せいはつ)の時(とき)渋谷(しふや)
八幡宮(はちまんくう)へ参篭(さんろう)あり其時(そのとき)荏原野(えはらの)より東條(とうてう)芦毛(あしけ)の馬(うま)を撰(えら)
んて献(けん)せられんとし此地(このち)を牽(ひか)れたりしに䠝(たをれ)たるにより是(これ)を
止(とめ)られしと云《割書:或(あるいは)云(いふ)頼朝卿(よりともきやう)御狩(みかり)の時(とき)この所(ところ)にして乗(のり)給ふ所の馬(うま)頻(しきり)に驚(おとろ)き|謬(あやまり)て澤(さは)に落入(おちいり)て死(し)せり故(ゆゑ)に塚(つか)に築篭(つきこめ)たりとも其(その)事(こと)は足毛塚(あしけつか)の条(てう)》
《割書:下(か)を照(てら)し合(あは)せてみるへし又云 頼朝卿(よりともきやう)の乗(のり)給ひしは芦毛(あしけ)なりしとて今(いま)も此地(このち)にて芦毛(あしけ)|馬(うま)を畜(か)はすとなりもしあやまつてこれを畜事(かふこと)あるときは必(かならす)祟(たゝり)ありとて恐(おそ)れいじめりと也》
若宮(わかみや)八幡宮(はちまんくう) 上馬牽澤村(かみうまひきさわむら)二子(ふたこ)街道(かいたう)より右(みき)の方三丁 斗(はかり)入(いり)て小(さひさ)き
森(もり)の中(うち)にあり駒留(こまとめ)八幡宮(はちまんくう)と称(しよう)す北條(ほうてう)相模守(さかみのかみ)時頼(ときより)朝臣(あそん)崇尊(すうそん)の
霊像(れいさう)にして神躰(しんたい)は一寸五分 斗(はかり)ありて左(ひたり)の御手(おんて)に弓(ゆみ)を持(ち)し