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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之8 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之8 - ページ 70

ページ: 70

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【右丁】  あり又 行基(きやうき)菩薩(ほさつ)は良材(りやうさい)を得(え)て薬師佛(やくしふつ)の尊像(そんさう)を彫刻(てうこく)し給ふ  《割書:此地(このち)を去(さる)事(こと)五十 余(よ)町 巽(たつみ)の方 小倉(をくら)と号(なつ)くる地(ち)に一の池(いけ)あり此間(このあひた)|夜毎(よこと)に竜燈(りうとう)をさゝく又 后(きさき)の御悩(こなう)も四月八日よりおこたり給ふとなり》佛堂(ふつたう)造立(さうりふ)落成(らくせい)の  後(のち)橘樹郡(たちはなこほり)の地(ち)を以(もつ)て寄附(きふ)し給ふ時(とき)に天平(てんへい)十二年庚申十一月  なり其後(そのゝち) 文徳(もんとく)天皇(てんわう)の御宇(きよう)に當(あた)り惟喬(これたか)惟仁(これひと)御同胞(ことうはう)の太子(たいし)  御位定(おんくらゐさため)の時(とき)慈覚(しかく)大師(たいし)惟仁(これひと)皇子(わうし)の御為(おんため)に種々(しゆ〳〵)の御祈(おんいのり)ありて  天安(てんあん)元年丁丑の八月 當山(たうさん)に勅使(ちよくし)を立(たて)られ堂塔(たうたふ)御 再営(さいえい)あり  翌年(よくねん)戊寅 初秋(しよしう)悉(こと〳〵)く落慶(らくけい)して𦾔(きう)觀(くわん)に復(ふく)す同年八月 本尊(ほんそん)を京(けい)  師(し)より移(うつ)し給ふ《割書:本尊(ほんそん)駿河國(するかのくに)青島(あをしま)の里(さと)に至(いた)り給ふ夜(よ)自(みつか)ら先(さきた)つて當山(たうさん)辰巳(たつみ)の|方(かた)の大盤石(たいはんしやく)の上(うへ)に立(たゝ)せ給ふ人々 奇異(きい)とす則(すなはち)影向石(えうかうせき)是(これ)なり》  是(これ)八葉(はちえふ)胎蔵(たいさう)の德(とく)を備(そな)へたり末世(まつせ)に至(いた)る迄(まて)二世(にせ)の悉地(しつち)圓満(えむまん)す  へき相(さう)ありとて勅使(ちよくし)と共(とも)に帰洛(きらく)の後(のち)奏聞(そうもん)ありしかは天皇(てんわう)再(ふたゝ)ひ  改(あらた)めて橘樹郡(たちはなこほり)を寺(てら)に充(あて)しむ此年(このとし)の春(はる)三月 竟(つひ)に惟仁(これひと)太子(たいし)御位(みくらゐ)に  つかせ給ふ《割書:清和帝(せいわてい)|是(これ)なり》是(これ)偏(ひとへ)に此(この)本尊(ほんそん)の衛護(ゑいこ)のよつてしからしむる故(ゆゑ) 【左丁】  ならんとて威德山(ゐとくさん)と号(なつ)けられ近江國(あふみのくに)蒲生郡(かまふこほり)の地(ち)を御寄(こき)  附(ふ)の宣旨(せんし)ありしといふ 十三塚(しふさんつか) 土人(としん)は十三本墓(しふさんほんはか)と呼(よ)べり野川村(のかはむら)の耕地(かうち)の中(なか)此所(こゝ)彼所(かしこ)に  散在(さんさい)せり雜樹(さふしゆ)茅草(かやくさ)茂(しけ)れり相傳(あひつた)ふ新田(につた)左兵衛佐(さひやうゑのすけ)江戸(えと)遠江守(とほ〳〵みのかみ)の  為(ため)に伐(うた)れて矢口(やくち)の渡(わたし)にて亡(ほろ)ひ給ひし時(とき)随(したか)ふ所(ところ)の家臣(かしん)の墳墓(ふんほ)  なりといへとも詳(つまひらか)ならす 舟田(ふなた) 子母口村(しほくちむら)の内(うち)府中道(ふちゆうみち)の右にあり橘明神(たちはなみやうしん)の神田(しんてん)にして長(なかさ)  二十 歩(ほ)はかり幅(はゝ)十四歩あまりある水田(すゐてん)なり舟(ふね)の形(かたち)にして其回(そのめく)りは  悉(こと〳〵)く陸田(りくてん)なり舟河原(ふなかはら)と称(しよう)する地(ち)は社(やしろ)より十町はかり東(ひかし)に當(あた)りて  今(いま)は民村(みんそん)の字(あさな)となれり次(つき)の橘明神(たちはなみやうしん)の条下(てうか)と合(あは)せみるへし 橘明神(たちはなみやうしん) 同所 府中道(ふちゆうみち)より四町あまりの右の方 山(やま)の上(うへ)にあり別當(へつとう)は  真言宗(しんこんしう)にして蓮乗院(れんしようゐん)と号(かう)す祭礼(さいれい)は隔年(かくねん)九月九日に修行(しゆきやう)す  祭神(さいしん)は弟橘媛(おとたちはなひめ)を祀(まつ)ると云 神體(しんたい)は一尺三四寸 計(はかり)ありて男躰(なんたい)女躰(によたい)二