翻刻!石本コレクション

コレクション: ステージ1

信越大地震場所 - 翻刻

信越大地震場所 - ページ 1

ページ: 1

翻刻

弘化四丁未年五月廿八日新版 信越大地震場所   信州一ノ宮 諏訪大明神  水内郡  佐久郡  高井郡  安曇郡  埴科郡  小県郡  更級郡  伊奈郡  筑摩郡  諏訪郡 夫天地不時之変動は陰陽混して天にあれは雷雨なる 地にいれは地震なすこれ神仏の応護も是をおさむる事かたし 抑信州は日本高土第一の国也郡数十郡高五十五万七千三百石 及ひ上々国にして山川多く人はしつそにして名産多く五こく豊饒の地也然ルにいかなる時節にありけん弘化四年丁未三月廿四日の夜ゟ 古今未曾有の大地震ニ而山川変し寺々社地人家をつぶし人馬 亡失多く火災水なんにくるしむ事村里の凶へんつふさに爰に記し且は  上之御仁恵良民救助の御国恩後代にしらしめんか為にしめす尤も 三月陽気過度なること数日廿四日夜四ツ時俄に山なりしんとうなし  善光寺辺殊につよくそれ地しんといふより早く大山くつれおち水は あふれ地中めいとうなすより五寸壱尺又は五尺壱丈と大地さけて 黒赤のとろふき出し火ゑんのこときものもえ上り方丈客殿庫裏 宝蔵寺中十八ケ町の人々西八丁東八町岩石桜小路権堂丁あまねく ゆりつふされはたこや藤や平左衛門同平五郎両宿に止宿の男女凡 七百廿余人外はたこや止宿老若男女凡千八百余人所之者およそ 千七十余人権堂町遊女百八十四人なり皆即死なす其夜御堂に こもり居る者あるひは一生けんめい仏号をとなへ御堂へかけ入しもの 其夜の大なんをのかれし事是まつたく三国伝来ゑんふたこんの尊像の 利益広大なる事世の人のしる所也尊むへし〳〵 本堂広間十八間おく行 三十六けん東西南北四方表門にて寺号則四ツ有東は定額山善光寺西は 不捨山浄土寺南は南めい山無量寿寺北は北宝山雲上寺天台宗寺領千石 尼寺にて由来人しる所也大かん寺山門のこる此へん北は大峯戸かくし山植松小松 しんまん寺西条吉村田子平手室飯小平落かけ小島大島新町柏原のしり赤川 関川御関所東こんとう間の御所中御所あら木青木島大つか間島くしまた水沢西寺尾 田中南の方は北はら藤枝雨の宮矢代向八幡志川山田小松原こく蔵山茶臼山丹波島西は あら安かみや入山田中梅木此辺殊に夜中ゆへ其そうどう大かたならす大石にうたれ 谷川はあまり火ゑん天にのほりすさましかりけるありさま也都て乍恐 御代官御支配の分つふれ家五千三百九十軒半つふれ二千二百けん余 但し木品打くたかれ用に相立すつふれ家同様にて死人凡二千七百人 けか人九百人ほと馬百七十三疋牛二疋大地にめり込家数廿軒程 寺社四十六ケ所郷蔵廿二ケ所 是は六万石はかりのうちなり 扨又水内郡を尋るに小ふせ神代あさの大くちかに沢今井 赤沢三ツまたさかい村茂右衛門村駒たて戸隠小泉とかり 大坪曽根北条小さかゐわらひふかさハ第一飯山御城下至 てきひしきちしんにて逃んとしてはころひ足たゝすあほ のけにはふよりしかたもなく老人子供は泣叫ひ地はさけて砂を吹出し 山々はくつれ男女の死亡丁かたにて四百三十人其外在方多く此内丹波川 川付の村々一同に押なかし行方をしらす更級郡は内小しまはし本 大原和田古いちはかるい沢よしハら竹房今泉三水あんそこ小松原くほ寺 中のうしろ丁みな家々をこと〳〵くたおす中にも稲荷山にてつぶれたる 家々は廿八日には大水にておしながしゆくゑしれすこゝに岩倉山といふ高山 高サ十八九丈にて安庭村山平林むら両村の間に有此山めいとうなし あたかも大雷の如く半面両端くつれ一ケ所は三十丁一ケ所は八十丁丹波川の 上手へおし入近村一同にうつまりこう水あふれ七八丈も高く数ケ村湖水の如く 人馬の死亡数しれす同少し北の方に六丈はかりの岩山有しか是又ぬけおち 五丁ほと川中へ押出し土屋藤倉の両村水中へおし入¬あつみ郡の分新町と 申所三百八十軒の里こと〳〵くつふれ其まゝ出火にて焼失なし夫ゟ大水二丈 はかり高くみなきり目も当られぬ斗りにて宮ぶち犬かい小梅中曽根 ふみ入寺竹くまくら成金町ほそかしうら町とゞろき村ほり金村小田井 中ぼり上下鳥羽住吉長尾柏原七日市間々べきつね島池田町ほりの内 曽根原宮本草尾船場むら等大破に及ぶ¬小さがた郡は秋和生づる 上田御城下西は新丁上小島下こじま此辺山なりしんどうなし地中 めいどうす今にも大地かさけるかと此へんのものは生たる心ちなくされど 大地のさけるほとの事はなしといへど家々はつふれけが人多く前田 手つか山田別所米沢くつかけならもと一の沢凡百四十ケ村ほど ¬ちくま郡は八まんむら辺至てつよく度々ゆりかへし人馬損し 多くほうふく寺七あらし赤ぬた洞村をかた町松岡ありかし水くみ 松本御城下辺百二三ケむらふるひつよく庄内田貫ちくま新町 あらゐ永田下新上新三みぞ飛騨越中さかひにいたる  ¬佐久郡は小諸御城下西の方は滝原市町本町与良村四ツ谷 間瀬追分かり宿右宿くつかけかるい沢赤沢峠町 矢さき山浅間山ゟ上しう口度々つよくゆり 川付のかた至てひどく夫ゟ¬諏訪郡は 高島御城下大水高きは少々とて 八重ばら大日向細谷平はやし 布引此辺は少々つよくゆる  ¬はにしな郡は松代御じやう下 近へん廿四日ゟゆりはしめ 廿九日朝晦日夕方迄 三度つよくふるひ 大石をおし出し 山々くづれやしろ へんことにきびしく 人家多くつぶれ 川付下手の方山々 岩はなくづれ人家を そんじ平林かけむら 赤しば関屋西条 せきや川上下とくら 中条よこ尾いま井 祢づ之宿上下塩尻 村等同様¬高井郡の 分丹波川の東にて須坂の御じやうか中じま御ちん屋川 へりの村々ふくしま高なし中じま別府いゝ田羽場くり林 大俣辺ゟ田上岩井安田坂井等つよくふるひ家をたほす事少なからすそれゟへちご路にいたりて 廿四日よりゆりはじめ段々つよく廿九日の丑の上こくは大へんの大ぢしんにて松さきあらゐへんより くびき郡高田の御城下ゟいま町中やしき春日辺人家をくづし人馬のけが等多くそのうち 信州寄の方きびしく山々は一同にくずれ水はあぶれ大ばんじやくをころがし中にも ながさは村と申す小村はなさけなくも大山の為につぶれ七十人ほと地中にうつまりわずか 手足のみ相見へたりあはれと申もおろかなれ其上廿九日は今町辺大なみに引入られ家 流す事少からす此たび信越二ケ国の大ぢしんは実もきたいの珍事にていにしへより ぢしんも数度有之といへども大地さけ泥砂をふき 出しかくの山々人馬の死亡におよひ 前代未聞の凶へん也善光寺辺ハ廿四日ゟ廿五日迄きびしく松代ゑちご路ハ廿九日三十日に 至て東西廿里南北三十里山川をくづしよう〳〵地しんはしづまれども山々くづれこう水あふれわうくはん人馬の通路をふさぎ且地めんさけたる所十間位 筋つき黒赤のどろ水ふき出し山々くつれ大石ころばりおち田畑こと〴〵く変地いたし用水所は欠くづれ谷川等ふるひうづまり一面にどろ水ふき出し貯への 俵物はのこらすくづれどろ水をかぶり地中にうつまり別て川中じまは大水人力にて防く事あたはす一方にて水を落し候へは一方は水なんにていかやうにも 相なるも不知西の方にて防水致せは東の方のこる村々おしながし双方とも大変にていかさま騒動にも及ばんくらゐの仕合にて然ル所御見分の上御下知無之うちは双方共 手出しいたし候事御差留にて早速ほり割人足共さし向られ候へどもいよ〳〵洪水みなきり此辺の者は親にはなれ子にわかれ夫婦の所在もしれす庄や村役人 其外本心を取失ひ候如く跡片付の心得もなく潰家の前に家内一同雨露の手当もなくとほうにくれ只々しきりに落涙に及相応に□□□【くらせ】しも米こくは 土をかぶりどろ水に入食物の手だんもなく小者、なんぎの者はたゝ打ふしてなき入ては死かいにすがりけが人はおびたゝしく苦つうにたへかね罷在いづれの村々も同ようにて たがひにたすけ合ちからもなく差当り食事にさしつかへ呑水もかねて用水を持居ても皆どろ水にてきかつに及あはれといふもおろか也水内高井の両郡田畑七八分 つぶれ家をつぶし道具を失ひ候分八分にて此上いかやうの満水にも成へくもはかりかたく川つきの村々山林に退去いたし候やはり山々も日々鳴どういたし水勢雷 のことくにて一時に切候へは又々水災わかりかたく諸方御手配有之しに四月十三日夕七時俄に山谷めいとうなし水おしぬき左右の土手を切堤の上をのりこし川中島は 申に不及さい川へ逆水おし入なか〳〵防事かなはす松代御代下辺迄水みちて川そへ村々を押ながし高サ二丈斗り作物はもちろん溺死人けか人多く村々古今 まれなる事ニて凡三百余ケ村をながし廿四日ゟ火災又々斯水なんはたとへんかたもなく男女死亡惣高二万余人也けが人其数しれす馬五百七十二疋牛 二十二疋也いかに天へんとは申なからかくの災害良民取つゞき成かね候程の次第然は御代官様御地頭様は慈母の子をあはれむごとく御すくひ小家を立  米銭はもちろん御手当あつく御れんみんの御すくひあそはされ候段泰平の御めくみありかたきといふも恐有されば諸人御国恩をわすれんがため一紙につゞるのみ 信越御代官 石原清左エ門 高木清左エ門 川上金之助 松代十万石真田信濃守 松本六万石松平丹波守 上田五万三千石松平伊賀守 高遠三万三千石内藤駿河守 高島三万石諏訪因幡守 飯山二万石本多豊後守 飯田一万七千石堀兵庫頭 小諸一万五千石牧野遠江守 岩村田一万五千石内藤豊後守 須坂三万五千二石堀長門守 爰に弘化四丁未年 正月十三日松平 伯耆守様御領分 丹後国竹野郡幾野村 百姓権左衛門ト云大百姓 所持地めんのうち 一夜のうち大山出来 又其下に大穴あり わたり十間余深サ 三十五けん外に青石大サ 三間九尺高サ壱丈 二尺八寸是も一夜の内 同時にふき出す

現代語訳

弘化四丁未年五月二十八日新版 信越大地震場所 信州一ノ宮 諏訪大明神  水内郡  佐久郡  高井郡  安曇郡  埴科郡  小県郡  更級郡  伊那郡  筑摩郡  諏訪郡 そもそも天地の異常な変動は陰陽が混乱して、天にあれば雷雨となり、地にあれば地震となる。これは神仏の加護をもってしても鎮めることが困難である。そもそも信州は日本で最も高い土地の第一の国であり、郡数十郡、高五十五万七千三百石に及ぶ上々国で、山川が多く、人は質素で名産が多く、五穀豊穣の地である。ところがどのような時節であったのか、弘化四年丁未三月二十四日の夜から古今未曾有の大地震で、山川が変わり、寺社・人家を潰し、人馬の死亡が多く、火災・水難に苦しむことになった。村里の凶変をつぶさにここに記し、かつ上(幕府)の仁恵による良民救助の国恩を後代に知らしめるために示すものである。 三月は異常に暖かい日が数日続き、二十四日夜四つ時(午後十時頃)に俄かに山鳴り震動を起こし、善光寺辺りは特に強く、それを地震というよりも早く大山が崩れ落ち、水が溢れ、地中が鳴動することから五寸一尺、また五尺一丈と大地が裂けて黒赤の泥が噴き出し、火炎のようなものが燃え上がった。方丈・客殿・庫裏・宝蔵・寺中十八ヶ町の人々、西八町・東八町・岩石・桜小路・権堂町がことごとく揺り潰された。はたご屋・藤屋・平左衛門・同平五郎両宿に宿泊の男女凡そ七百二十余人、外のはたご屋宿泊の老若男女凡そ千八百余人、所の者およそ千七十余人、権堂町遊女百八十四人がみな即死した。その夜御堂に籠もっていた者、あるいは一生懸命仏号を唱え御堂へ駆け入った者は、その夜の大難を逃れることができた。これは全く三国伝来の阿弥陀如来の尊像の利益が広大なることを世の人の知るところである。尊むべきことである。 本堂の広間は十八間奥行三十六間、東西南北四方に表門があって寺号も四つある。東は定額山善光寺、西は不捨山浄土寺、南は南明山無量寿寺、北は北宝山雲上寺で、天台宗寺領千石の尼寺で由来は人の知るところである。大勧進寺山門は残った。この辺り北は大峯・戸隠山・植松・小松・新満寺・西条・吉・村田子・平手・室・飯・小平・落懸・小島・大島・新町・柏原の尻・赤川・関川・御関所・東今東・間の御所・中御所・荒木・青木島・大塚・間島・櫛又・水沢・西寺尾・田中、南の方は北原・藤枝・雨宮・矢代・向八幡・志川・山田・小松原・国蔵山・茶臼山・丹波島、西は荒安・上宮・入山・田中・梅木、この辺りは特に夜中ゆえその騒動は大方ならず、大石に打たれ、谷川は溢れ、火炎が天に昇る凄まじい有様であった。 すべて恐れながら御代官御支配の分で、潰れ家五千三百九十軒、半潰れ二千二百軒余り(ただし木材が打ち砕かれて用に立たず、潰れ家同様)で、死人凡そ二千七百人、怪我人九百人ほど、馬百七十三疋、牛二疋、大地に埋まり込んだ家数二十軒程、寺社四十六ヶ所、郷蔵二十二ヶ所。これは六万石ばかりの内である。 さて水内郡を尋ねると、小布施・神代・浅野・大口・蟹沢・今井・赤沢・三つ又・境村・茂右衛門村・駒立・戸隠・小泉・戸狩・大坪・曽根・北条・小坂井・笑・深沢が第一で、飯山御城下は至って厳しい地震で、逃げようとしても転び、足が立たず、這うより仕方もなく、老人・子供は泣き叫び、地は裂けて砂を噴き出し、山々は崩れ、男女の死亡は大方で四百三十人、その外在方も多い。この内、千曲川沿いの村々は一同に押し流され行方を知らず。 更級郡は内小島・橋本・大原・和田・古市・軽井沢・吉原・竹房・今泉・三水・安足・小松原・窪寺・中後町がみな家々をことごとく倒した。中でも稲荷山で潰れた家々は二十八日には大水で押し流され行方知れず。ここに岩倉山という高山があり、高さ十八九丈で、安庭村・山平・林村両村の間にある。この山が鳴動し、あたかも大雷のように半面両端が崩れ、一ヶ所は三十町、一ヶ所は八十町、千曲川の上手へ押し入り、近村一同に埋まって洪水が溢れ七八丈も高く、数ヶ村が湖水のようになり、人馬の死亡数知れず。同じく少し北の方に六丈ばかりの岩山があったが、これもまた抜け落ち五町ほど川中へ押し出し、土屋・藤倉の両村を水中へ押し入れた。 安曇郡の分の新町という所は三百八十軒の里がことごとく潰れ、そのまま出火で焼失した。それから大水が二丈ばかり高くなり、みな切り目も当てられないほどで、宮淵・犬飼・小梅・中曽根・踏入寺・竹熊・倉成・金町・細橿・浦町・轟き村・堀金村・小田井・中堀・上下鳥羽・住吉・長尾・柏原・七日市・間々部・狐島・池田町・堀之内・曽根原・宮本・草尾・船場村等が大破に及んだ。 小県郡は秋和・生田・上田御城下・西は新町・上小島・下小島、この辺りで山鳴り震動し、地中が鳴動する。今にも大地が裂けるかと、この辺りの者は生きた心地がしなかったが、大地が裂けるほどのことはなかったといえども、家々は潰れ怪我人が多く、前田・手塚・山田・別所・米沢・沓掛・奈良本・一の沢凡そ百四十ヶ村ほど。 筑摩郡は八幡村辺りが至って強く、度々揺り返し、人馬の損傷が多く、法福寺・七嵐・赤沼田・洞村・尾形町・松岡・有明・水汲・松本御城下辺百二三ヶ村の振るいが強く、庄内・田貫・筑摩・新町・新井・永田・下新・上新・三溝・飛騨・越中境に至る。 佐久郡は小諸御城下、西の方は滝原・市町・本町・与良村・四ツ谷・間瀬・追分・軽井宿・右宿・沓掛・軽井沢・赤沢・峠町・矢崎山・浅間山から上州口まで度々強く揺れ、川沿いの方が至ってひどく、それから諏訪郡は高島御城下、大水が高いのは少々とて、八重原・大日向・細谷・平林・布引、この辺りは少々強く揺れる。 埴科郡は松代御城下近辺で二十四日から揺り始め、二十九日朝・晦日夕方まで三度強く振るい、大石を押し出し、山々崩れ、社辺ことに厳しく、人家多く潰れ、川沿い下手の方山々岩は皆崩れ人家を損じ、平林・欠村・赤柴・関屋・西条・関屋・川上下・徳蔵・中条・横尾・今井・祢津の宿・上下塩尻村等同様。 高井郡の分は千曲川の東で須坂の御城下・中島・御茶屋・川辺りの村々・福島・高梨・中島・別府・飯田・羽場・栗林・大俣辺りから田上・岩井・安田・坂井等が強く振るい家を倒すこと少なからず。それから越後路に至って二十四日から揺り始め段々強く、二十九日の丑の上刻は大変の大地震で、松崎・新井辺りから頸城郡高田の御城下から今町・中屋敷・春日辺りで人家を崩し人馬の怪我等多く、その内信州寄りの方が厳しく、山々は一同に崩れ水は溢れ大磐石を転がし、中でも長沢村という小村は情けなくも大山のために潰され七十人ほど地中に埋まり、わずかに手足のみ見えたのは哀れというも愚かなことであった。その上二十九日は今町辺りが大波に引き入れられ家を流すこと少なからず。 この度の信越二ヶ国の大地震は実に稀代の珍事で、古来より地震も数度あったといえども、大地が裂け泥砂を噴き出し、これほど山々・人馬の死亡に及ぶのは前代未聞の凶変である。善光寺辺りは二十四日から二十五日まで厳しく、松代・越後路は二十九日・三十日に至って東西二十里・南北三十里の山川を崩した。ようやく地震は静まったが、山々崩れ洪水溢れ、旺盛な人馬の通路を塞ぎ、かつ地面の裂けた所は十間位の筋が付き、黒赤の泥水が噴き出し、山々崩れ大石が転がり落ち、田畑ことごとく変地し、用水所は欠け崩れ、谷川等が振るい埋まり、一面に泥水が噴き出し、蓄えの俵物は残らず崩れ泥水をかぶり地中に埋まった。 特に川中島は大水で人力では防ぐことができず、一方で水を落とせば一方は水難で、どのようになるかも分からず、西の方で防水すれば東の方の残る村々を押し流し、双方とも大変でいかにも騒動に及ぶくらいの仕合で、然るところ御見分の上御下知がないうちは双方とも手出しすることを御差し止めで、早速堀割人足共を差し向けられたが、いよいよ洪水が激しくなった。この辺りの者は親に離れ子に別れ、夫婦の所在も知れず、庄屋・村役人その外も本心を取り失ったかのように跡片付けの心得もなく、潰れ家の前に家内一同雨露の手当もなく途方に暮れ、ただただしきりに落涙に及んだ。相応に暮らしていた者も米穀は土をかぶり泥水に入り、食物の手立てもなく、小者・難儀の者はただ打ち臥して泣き入っては死骸にすがり、怪我人はおびただしく苦痛に堪えかね罷り在る。いずれの村々も同様で、互いに助け合う力もなく、差し当たり食事に差し支え、飲み水も兼ねて用水を持っていても皆泥水で飢渇に及ぶ。哀れというも愚かである。 水内・高井の両郡は田畑七八分潰れ、家を潰し道具を失った分が八分で、この上どのような満水にもなるかも計り難く、川沿いの村々は山林に退去した。やはり山々も日々鳴動し、水勢は雷のようで一時に切れれば又々水災が分からず、諸方に御手配があった。四月十三日夕七時俄かに山谷が鳴動し水が押し抜け、左右の土手を切り堤の上を乗り越し、川中島は申すに及ばず犀川へ逆水が押し入り、なかなか防ぐことができず、松代御城下辺まで水が満ちて川沿いの村々を押し流し、高さ二丈ばかり、作物はもちろん溺死人・怪我人が多く、村々古今稀なることで、凡そ三百余ヶ村を流し、二十四日から火災、又々この水難は譬えようもなく、男女死亡総計二万余人である。怪我人その数知れず、馬五百七十二疋、牛二十二疋である。 いかに天変とは申しながら、これほどの災害で良民が続けて耐えかねる程の次第であるが、御代官様・御地頭様は慈母が子を憐れむごとく御救い小屋を建て、米銭はもちろん御手当厚く御憐民の御救いをなされた段、太平の御恵みありがたきというも恐れ多い。されば諸人が御国恩を忘れないため一紙に綴るのみ。 信越御代官 石原清左衛門 高木清左衛門 川上金之助 松代十万石真田信濃守 松本六万石松平丹波守 上田五万三千石松平伊賀守 高遠三万三千石内藤駿河守 高島三万石諏訪因幡守 飯山二万石本多豊後守 飯田一万七千石堀兵庫頭 小諸一万五千石牧野遠江守 岩村田一万五千石内藤豊後守 須坂一万五千二百石堀長門守 ここに弘化四丁未年正月十三日、松平伯耆守様御領分丹後国竹野郡幾野村百姓権左衛門という大百姓の所持地面のうち、一夜のうちに大山ができ、またその下に大穴があり、わたり十間余り、深さ三十五間、外に青石の大きさ三間九尺、高さ一丈二尺八寸、これも一夜の内に同時に噴き出した。

英語訳

New Edition of Kōka 4th Year, Hinoe-Hitsuji, Fifth Month, Twenty-eighth Day Locations of the Great Earthquake in Shinshū and Echigo Shinshū Ichinomiya Suwa Daimyōjin Minochi District, Saku District Takai District, Azumi District Hanishina District, Chiisagata District Sarashina District, Ina District Chikuma District, Suwa District Natural disasters and abnormal changes in heaven and earth occur when yin and yang become confused - in heaven they manifest as thunder and rain, on earth as earthquakes. Even the protection of gods and buddhas finds it difficult to suppress these phenomena. Shinshū is Japan's premier highland province, with dozens of districts totaling 557,300 koku, making it a first-class province with many mountains and rivers, where people live simply, famous products abound, and the five grains flourish. However, for whatever reason, from the night of the 24th day of the third month of Kōka 4 (1847), an unprecedented great earthquake changed mountains and rivers, destroyed temples, shrines, and houses, caused many deaths of people and horses, and brought suffering from fires and floods. I record here in detail the calamities of villages and hamlets, and show this to make known to future generations the national benevolence of relief for good people through the compassionate governance of the authorities above. The third month had unusually warm weather for several days. On the night of the 24th at the hour of the Dog (around 10 PM), suddenly mountain rumbling and trembling began. The area around Zenkō-ji was particularly severe. Rather than calling it an earthquake, great mountains collapsed and fell, water overflowed, and the earth roared underground. The ground split five sun to one shaku, or five shaku to one jō, and black and red mud gushed forth while flame-like phenomena burned upward. The main hall, guest quarters, kitchen, treasure house, and people of the temple's eighteen districts - West Eight Districts, East Eight Districts, Iwaseki, Sakura-kōji, Gondō-chō - were all shaken and destroyed. At the inns Hatago-ya, Fuji-ya, Heizaemon, and Heigōrō, approximately 720 men and women lodgers died, along with about 1,800 other inn guests of all ages and genders, about 1,070 local people, and 184 prostitutes from Gondō-chō - all died instantly. Those who had taken refuge in the main hall that night, or who desperately chanted the Buddha's name and rushed into the hall, escaped that night's great disaster. This clearly demonstrates the vast benefits of the sacred Amida Buddha image transmitted from the three countries, as is known throughout the world. It should be revered. [The text continues with detailed descriptions of the earthquake's effects across various districts, damage assessments, casualty figures, relief efforts by officials, and concludes with administrative information about local officials and lords.] At the end, there is a note about a separate incident on the 13th day of the first month of Kōka 4, in the domain of Matsudaira Hōki-no-kami in Tango Province, Takeno District, Ikuno Village, where a large farmer named Gonzaemon experienced the overnight appearance of a great mountain on his land, along with a large hole over ten ken wide and thirty-five ken deep, plus a blue stone measuring three ken nine shaku with a height of one jō two shaku eight sun, all appearing simultaneously in one night.