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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之17 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之17 - ページ 16

ページ: 16

翻刻

【右丁】 駿馬塚(しゆんめのつか) 駿馬塚 【左丁】  の時(とき)愛(あい)する所(ところ)の青海原(あをうなはら)といへる駿足(しゆんそく)偶(たま〳〵)病(やまひ)してこゝに斃(へい)す公(こう)大(おほひ)に是(これ)を  傷(いた)みて朽骨(きうこつ)を駅路(ゑきろ)の傍(かたはら)に埋(うつ)め給ふとそ其後(そののち)里民(りみん)小祠(こほこら)を営(いとな)み  建(たつ)といへり又(また)近(ちか)き頃(ころ)其地(そのち)のあるし公(こう)の明徳(めいとく)を千歳(せんさい)の下(しも)に顕(あらは)さん  ことを欲(ほつ)して塚(つか)の側(かたはら)に石碑(いしふみ)を建(たて)て祠(ほこら)は其塚(そのつか)の東(ひがし)の方(かた)に遷(うつ)せり 飛鳥明神社(あすかみやうしん  ) 小塚原(こつかはら)にあり此地(このち)の産土神(うふすな)とす世人(せしん)混(こん)して蓑輪(みのわ)の  天王(てんわう)と称(しよう)せり別当(へつたう)は聖護院宮末(しやうこゐんのみやのまつ)にして荊石山神翁寺(けいせきさんしんをうし)と号(かう)す  祭神(まつるかみ)大己貴命(おほあなむちのみこと)《割書:日本紀(にほんき)古語拾遺(ここしふゐ)等(とう)に大己貴命(おほあなむちのみこと)は|素盞嗚命(そさのをのみこと)の御子(みこ)なりとあり》事代主命(ことしろぬしのみこと)《割書:古事記(こしき)に事代主命(ことしろぬしのみこと)は|大国主命(おほくにぬしのみこと)の御子(みこ)なりと云》  二坐なり社伝(しやてんに)曰(いはく)往古(むかし)延暦(えむりやく)年中 比叡(ひえ)の黒珍師(こくちんし)東国(とうこく)化度(けと)の砌(みきり)此地(このち)に  至(いた)るに小篠(をさゝ)の茂(しけ)りたる一堆(いつたい)の小塚(こつか)あり《割書:此塚(このつか)によりて此地(このち)を|小塚原(こつかはら)と号(かう)せり》其塚(そのつか)より夜(よ)な〳〵  瑞光(すいくわう)を現(けん)し白衣(ひやくえ)を着(ちやく)したる二人(ふたり)の翁(おきな)荊棘(うはら)生(おひ)たる石(いし)の上(うへ)に降臨(こうりん)あり  て黒珍師(こくちんし)に示(しめ)して曰(いは)く我(われ)は素盞嗚命(そさのをのみこと)の和魂 大己貴命(おほあなむちのみこと)なりと《割書:当社(たうしや)牛頭(こつ)|天王(てんわう)と称(しやう)》  《割書:するは|是(これ)なり》又(また)一人(ひとり)の翁(おきな)曰(いはく)我(われ)は事代主命(ことしろぬしのみこと)なりと《割書:是(これ)を飛鳥(あすか)|明神(みやうしん)と号(かう)す》云云 仍(よつ)て恐敬(きやうけい)謁(かつ)  仰(かう)し清浄(しやう〳〵)の地(ち)を撰(えら)むて此(この)神(かみ)を一社(いつしや)に奉(ほう)すと《割書:牛頭天王(こつてんわう)は毎歳(まいさい)六月三日より|同九日まて千住大橋(せんしゆおほはし)の南詰(みなみつめ)に》

現代語訳

【右丁】 駿馬塚(しゅんめのつか) 駿馬塚 【左丁】 その時愛用していた青海原という名の駿足の馬が、たまたま病気になってここで死んでしまった。公は大いにこれを悲しんで、朽ちた骨を街道の脇に埋めたということである。その後、里の人々が小さな祠を営み建てたと言われている。また近頃、その土地の主人が公の明徳を永遠に顕彰しようと思い、塚の側に石碑を建て、祠はその塚の東の方に移したのである。 飛鳥明神社 小塚原にある。この土地の産土神とされている。世間の人々は混同して蓑輪の天王と称している。別当は聖護院宮の末寺で、荊石山神翁寺と号する。 祭神は大己貴命(日本紀、古語拾遺等によると、大己貴命は素戔嗚命の御子であるとされている)、事代主命(古事記によると、事代主命は大国主命の御子であるという)の二座である。 社伝によると、昔延暦年間に比叡の黒珍師が東国を教化する際、この地に至ると、小篠の茂った一つの小さな塚があった(この塚によってこの地を小塚原と号した)。その塚から夜ごと瑞光を現し、白衣を着た二人の翁が荊棘の生えた石の上に降臨して、黒珍師に示して言うには「我は素戔嗚命の和魂、大己貴命なり」と(当社を牛頭天王と称するのはこれである)。また一人の翁が言うには「我は事代主命なり」と(これを飛鳥明神と号する)云々。そこで恐れ敬って拝し、清浄な地を選んでこの神を一つの社に奉ったという(牛頭天王は毎年六月三日から同九日まで千住大橋の南詰に...

英語訳

【Right Page】 Shunme-no-tsuka (Mound of the Swift Horse) Shunme-no-tsuka 【Left Page】 At that time, his beloved swift horse named Aoumihara (Blue Ocean Plain) happened to fall ill and died here. The lord grieved greatly over this and buried the decayed bones beside the highway. Afterwards, the local villagers built and maintained a small shrine there, it is said. Also recently, the landowner, wishing to reveal the lord's virtuous conduct to future generations, erected a stone monument beside the mound, and the shrine was moved to the east side of that mound. Asuka Myōjin Shrine is located in Kozukahara. It serves as the tutelary deity of this area. People commonly confuse it and call it the Minowa Tennō. The shrine's administrator is affiliated with Shōgoin Palace, called Keisekisan Shin'ōji Temple. The enshrined deities are Ōanamuchi-no-mikoto (According to the Nihon Shoki, Kogoshūi, and other sources, Ōanamuchi-no-mikoto is said to be the child of Susanoo-no-mikoto) and Kotoshironushi-no-mikoto (According to the Kojiki, Kotoshironushi-no-mikoto is said to be the child of Ōkuninushi-no-mikoto) - two deities in total. According to shrine tradition, long ago during the Enryaku period, when the monk Kokuchin-shi of Mount Hiei came to this area to spread Buddhist teachings in the eastern provinces, he found a small mound covered with small bamboo grass (this area was named Kozukahara after this mound). From that mound, auspicious light appeared nightly, and two elderly men dressed in white robes descended upon stones covered with thorny bushes, revealing to Kokuchin-shi: "I am the peaceful spirit of Susanoo-no-mikoto, Ōanamuchi-no-mikoto" (this is why the shrine is called Gozu Tennō). Another elderly man said, "I am Kotoshironushi-no-mikoto" (this is called Asuka Myōjin), and so forth. Therefore, in reverent worship, he selected a pure site and enshrined these deities in one shrine (Gozu Tennō is carried annually from the third to the ninth day of the sixth month to the southern approach of Senju Ōhashi Bridge...