翻刻
【右丁】
千葉介胤直(ちはのすけたねなを)上杉憲忠(うへすきのりたゝ)に談(かたら)はれ父子(ふし)兄弟(きやうたい)共(とも)に一味(いちみ)して成氏(しけうち)に背(そむ)く《割書:成氏(しけうち)は将軍(しやうくん)|左馬頭(さまのかみ)なり》
こゝにまた故(こ)千葉大助(ちはのたいすけ)《割書:満|胤》か二男 陸奥守入道常輝(むつのかみにうたうしやうき)父子(ふし)《割書:其子を|孝胤(たかたね)と云》下総国(しもつふさのくに)馬加(まくはり)の城(しろ)
より打(うつ)て出(いて)成氏(しけうち)の味方(みかた)となりて合戦(かつせん)す竟(つゐ)に享徳(かうとく)四年三月廿日 胤直(たねなを)敗北(はいほく)し
其子(そのこ)胤宣(たねのふ)をよひ千葉入道常瑞(ちはにうたうしやうすい)舎弟(しやてい)中務入道了心(なかつかさにうたうれうしん)等(とう)悉(こと〳〵)く切腹(せつふく)すよつて
陸奥守(むつのかみ)は千葉(ちは)へ移(うつ)り千葉(ちは)の跡(あと)を継(つき)ける然(しか)るに上杉(うへすき)よりは中務入道了心(なかつかさにうたうれうしん)の子息(しそく)
実胤(さねたね)自胤(よりたね)二人を取立(とりたて)下総国(しもつふさのくに)市川(いちかは)の城(しろ)に楯籠(たてこもる)こゝにをひて千葉家(ちはけ)二流( りう)となり
総州(そうしう)大(おほひ)に乱(みた)る其頃(そのころ)京都(みやこ)より東下野守常縁(とうのしもつけのかみつねより)陸奥守(むつのかみ)退治(たいち)として馬加(まくはり)の城(しろ)へ馳(はせ)
向(むか)ひ攻戦(せめたゝか)ふ陸奥守(むつのかみ)かなはすして千葉(ちは)へ引退(ひきしりそ)く《割書:常縁(つねより)は千葉介常胤(ちはのすけつねたね)の六男 東(とうの)六郎太夫|胤頼(たねより)十世の孫(そん)なり時(とき)に美濃国(みのゝくに)郡上の城主(しやうしゆ)》
《割書:たり京都将軍(きやうとしやうくん)の命(めい)を|受(うけ)て下総(しもつふさ)に下向(けかう)す》康正(かうしやう)二年の正月 成氏(しけうち)市川(いちかは)の城(しろ)を囲(かこ)む同く十九日 落城(らくしやう)して
実胤(さねたね)は武州(ふしう)石浜(いしはま)へ落行(おちゆき)自胤(よりたね)は同 赤塚(あかつか)へ移(うつ)りける其後(そののち)上杉家(うへすきけ)より胤直(たねなを)の一(いつ)
跡(せき)として実胤(さねたね)を千葉介(ちはのすけ)に任(にん)せしむされと成氏(しけうち)陸奥守(むつ[の]かみ)の子(こ)孝胤(たかたね)を贔屓(ひいき)あ
りて千葉(ちは)に居置(すへをか)れける間《割書:孝胤(たかたね)は其父( ちゝ)陸奥守入道常輝(むつのかみにうたうしやうき)と共に故(こ)胤直(たねなを)兄弟(きやうたい)を亡(ほろほ)し|成氏(しけうち)へ奉公(ほうこう)の人にして故(こ)成氏(しけうち)より千葉(ちは)の跡(あと)を賜(たまは)りしなり》実胤(さねたね)は
城(しろ)へ入る事かなはすして武州(ふしう)石浜(いしはま)葛西(かさい)辺(へん)を知行(ちきやう)し時(とき)を待(まち)て居(ゐ)たりしか世(よ)の
【左丁】
鷲大明神祭(わしたいみやうしんまつり)
毎年十一月酉の日に
修行(しゆきやう)す世に酉(とり)の
まちといへり此日
近郷(きんかう)の農民(のうみん)家鶏(にはとり)を
献(けん)す祭(まつり)終(をは)るの後(のち)
悉(こと〳〵)く浅草寺観音(せんさうしくわんおん)
の堂前(たうせん)に放(はな)つを
旧例(きうれい)とす
現代語訳
【右丁】
千葉介胤直は上杉憲忠に説得され、父子兄弟ともに一味同心して成氏に背いた。《成氏は将軍左馬頭である》
ここにまた、故千葉大助《満胤》の二男である陸奥守入道常輝父子《その子を孝胤という》が、下総国馬加の城より出撃して成氏の味方となり合戦した。ついに享徳四年三月二十日、胤直は敗北し、その子胤宣をはじめ千葉入道常瑞、舎弟中務入道了心等がことごとく切腹した。そのため陸奥守は千葉に移り、千葉の跡を継いだ。しかし上杉側からは中務入道了心の子息である実胤・自胤の二人を取り立て、下総国市川の城に立て籠もらせた。ここにおいて千葉家は二流となり、総州は大いに乱れた。その頃、京都より東下野守常縁が陸奥守退治として馬加の城へ馳せ向かい攻め戦った。陸奥守は敵わず千葉へ引き退いた。《常縁は千葉介常胤の六男東六郎太夫胤頼の十世の孫である。時に美濃国郡上の城主であり、京都将軍の命を受けて下総に下向した》
康正二年の正月、成氏は市川の城を囲んだ。同じく十九日に落城して、実胤は武州石浜へ落ち行き、自胤は同じく赤塚へ移った。その後、上杉家より胤直の後継として実胤を千葉介に任命したが、成氏は陸奥守の子孝胤を贔屓して千葉に居住させていたため《孝胤はその父陸奥守入道常輝と共に故胤直兄弟を滅ぼし、成氏へ奉公の人であり、故成氏より千葉の跡を賜ったのである》、実胤は城へ入ることができず、武州石浜・葛西辺りを知行して時を待って居たが、世の
【左丁】
鷲大明神祭
毎年十一月の酉の日に執り行われる。世に酉の待ちという。この日、近郷の農民が家鶏を献上する。祭りが終わった後、ことごとく浅草寺観音の堂前に放つのを旧例とする。