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【右丁】
手(て)に参(まゐ)り忠功(ちゆうこう)を顕(あらは)し小山(をやま)が城(しろ)〻(〴〵)攻落(せめおと)さる然(しか)るに嘉慶二年五月
十三日 古河(こが)の住人(ぢゆうにん)野田右馬助(のだうまのすけ)囚人(めしうと)壱 人(にん)を搦(からめ)て鎌倉(かまくら)へ参(まゐ)らす此(この)
もの白状(はくじやう)申(まうし)けるは小田入道直高(をだにふだうなをたか)父子(ふし)小山若犬丸(をやまわかいぬまろ)と同意(どうい)し若犬(わかいぬ)
丸(まろ)を隠(かく)し置(おけ)る由(よし)を申(まう)す小田父子(をだふし)先年(せんねん)忠功(ちゆうこう)を尽(つく)せる人(ひと)なり何(なに)の
恨(うらみ)有(あり)て歒(てき)に同意(どうい)致(いた)しけるやと疑(うたがひ)ながら同(おなじ)き六月十三日 小田(をだ)が
子(こ)二 人(にん)召預(めしあづけ)七月十九日 管領(くわんれい)上杉中務大輔朝宗(うへすぎなかつかさのたいふともむね)を大将(たいしやう)として小(を)
田(だ)が城(しろ)を攻(せめ)ければ小田直高(をだなほたか)並 子息(しそく)二人 家老(からう)信田某等(しだなにがしら)城(しろ)を落去(らくきよ)
野刕(やしう)男躰山(なんたいざん)へ楯篭(たてこも)る此所(このところ)は高山(かうざん)にて力責(ちからぜめ)にも難落(おとしがたく)同(おなじ)き十一月
廿四日より相戦(あひたゝか)ひけるといへども勝負(しようぶ)も分(わか)たず依(よつ)て鎌倉殿(かまくらどの)より
謀(はかりごと)を以(もつ)て海老名備中守(えびなびつちゆうのかみ)を御使(おんつかひ)として免許(めんきょ)可被成(なさるべく)間(あひだ)出城(しゆつじやう)すべき
由(よし)被仰遣(おほせつかはされ)けるゆゑ翌(よく) 康慶元年五月 小田(をだ)并 子息(しそく)孫四郎(まごしらう)を被召出(めしいだされ)
嫡子(ちやくし)太郎(たらう)をば那須越後守(なすゑちごのかみ)へ預(あづけ)給ひ同(おなじ)き廿七日 曉天(けうてん)に又(また)鎌倉㔟(かまくらぜい)
【左丁】
攻(せめ)よす依(よつ)て小田(をだ)が家臣等(かしんら)百 餘人(よにん)討死(うちじに)し城(しろ)に火(ひ)を懸(かけ)て残(のこ)る者(もの)ど
も没落(ぼつらく)せりといふ事(こと)大草紙(おほざうし)に載(のせ)たり此砌(このみぎり)小山(をやま)が家(いへ)は亡(ほろび)けり徃(わう)
昔(じやく)治承 年中(ねんぢゆう)より右大将家に仕(つかへ)し小山左衛門尉朝政(をやまさゑもんのじようともまさ)兄㐧(きやうだい)三 人(にん)各(おの〳〵)
武威(ぶゐ)を輝(かゞやか)し鎌倉公方家(かまくらくばうけ)の世(よ)に至(いた)りても関東(くわんとう)の七屋形(なゝやかた)と称(しよう)せる
内(うち)なりしが一 时(じ)に滅(めつ)し又(また)小田直高(をだなほたか)が家(いへ)は宇都宮(うつのみや)の元祖(ぐわんそ)座主三(ざすのさむ)
郎宗綱(らうむねつな)より出(いで)て是(これ)も連綿(れんめん)として常陸(ひたち)に住(ぢゆう)し七屋形(なゝやかた)の内(うち)なる名(めい)
家(け)なれど此时(このとき)にぞ亡(ほろび)ける偖(さて)野刕(やしう)男躰山(なんたいざん)とあるに今(いま)も山中(さんちゆう)に幕(まく)
張(ばり)楢弓(ならゆみ)張楢(はりなら)などいふもあるはさるゆゑある事ならん猶(なほ)後(のち)の考(かんがへ)に
備(そな)ふ
白鶴(はくくわく) 土人(どじん)三社權現(さんじやごんげん)の神鳥(しんてう)なりと号(がう)すむかしより一番(ひとつがひ)のみ此原(このはら)
にすみけり雛(ひな)を養(やしな)ひけれどいづちへか翶翔(くわうしやう)し去(さり)て丹頂(たんちやう)の番(つがひ)ば
かり爰(こゝ)にすめり四五十年 前迄(まへまで)は原㙒(げんや)の中(うち)に逰(あそ)び居(ゐ)たるを湯元(ゆもと)へ
現代語訳
【右丁】
手に入れて忠功を顕し、小山の城々を攻め落とした。しかるに嘉慶二年五月十三日、古河の住人野田右馬助が囚人一人を捕らえて鎌倉へ参らせた。この者が白状して申すには、小田入道直高父子が小山若犬丸と同意し、若犬丸を隠し置いている由を申した。小田父子は先年忠功を尽くした人である。何の恨みがあって敵に同意したのかと疑いながら、同じ六月十三日、小田の子二人を召し預け、七月十九日、管領上杉中務大輔朝宗を大将として小田の城を攻めたところ、小田直高並びに子息二人、家老信田某等は城を落ち去り、野州男体山へ立て籠もった。この所は高山であって力攻めにも落としがたく、同じく十一月二十四日より相戦ったといえども勝負も分からず、よって鎌倉殿より謀略を以って海老名備中守を御使いとして免許すべき間、出城すべき由を仰せ遣わされたゆえ、翌康慶元年五月、小田並びに子息孫四郎を召し出され、嫡子太郎をば那須越後守へ預け給い、同じく二十七日暁天にまた鎌倉勢が
【左丁】
攻め寄せた。よって小田の家臣等百余人が討死し、城に火を掛けて残る者どもは没落したという事が大草紙に載せられている。この時、小山の家は滅びた。往昔治承年中より右大将家に仕えた小山左衛門尉朝政兄弟三人は各々武威を輝かし、鎌倉公方家の世に至っても関東の七屋形と称される内であったが、一時に滅び、また小田直高の家は宇都宮の元祖座主三郎宗綱より出て、これも連綿として常陸に住し、七屋形の内なる名家なれど、この時にぞ滅びた。さて野州男体山とあるに、今も山中に幕張、楢弓張楢などというものもあるのは、そのような理由がある事であろう。なお後の考察に備える。
白鶴 土人は三社権現の神鳥なりと号す。昔より一番のみこの原に住んでいた。雛を養ったけれどもいずこへか飛翔し去って、丹頂の番ばかりここに住んでいる。四五十年前までは原野の中に遊び居たるを湯元へ