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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之20 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之20 - ページ 7

ページ: 7

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 寺僧(しそう)も悉(こと〳〵)く追散(おひちら)されて終(つひ)に廃寺(はいし)ちなりけるとて今(いま)其号(そのかう)  のみを伝(つた)ふ 松戸津(まつとのつ) 常陸街道(ひたちかいたう)にして駅舎(えきしや)あり更級日記(さらしなにき)に鏡(かゝみ)の瀬(せ)松里(まつさと)の  津(つ)にとまりてとあるは此地(このち)の事(こと)をいふならん歟(か) 《割書:義経記(きけいき)に治承(ちしやう)四年|九月十一日 武蔵(むさし)と下(しも)》  《割書:総(ふさ)の境(さかひ)なる松戸(まつと)の庄(しやう)市河(いちかは)といふ所(ところ)に着(つき)給ふとありむかしは松戸(まつと)の庄(しやう)の名(な)にて|ありしならん歟(か)》 松戸堤(まつとつゝみ) 同所 新利根川(しんとねかは)の堤(つゝみ)をいふ鴻台戦記(こうのたいせんき)に天文(てんふん)六年十月  北条氏綱(ほふてううちつな)小弓御所義明(おゆみこしよよしあきら)を攻(せむ)る頃(ころ)其月(そのつき)四日の夜(よる)氏綱(うちつな)夜半(やはん)に  まきれて浅草川(あさくさかは)を打越(うちこえ)おほつの宿(しゆく)を夜深(よふか)に通(とほ)り過(すき)松戸(まつと)の堤(つゝみ)  にて軍議(くんき)ありし事(こと)を載(のせ)たり 《割書:おほつの宿(しゆく)いつれの地(ち)にや今(いま)しるへからす按(あんする)に|葛西(かさい)に青戸村(あをとむら)あり土人(としん)青戸(あをと)をあふとと》  《割書:唱(とな)ふ又 津(つ)と戸(と)とは通音(つうおん)なれは或(あるひ)は青戸(あをと)を云(いふ)ならん今戸八幡宮(いまとはちまんくう)の社記(しやき)に今戸(いまと)旧(もと)は|今津(いまつ)といひしとあるも同(おな)し例(れい)なるへし》 相模台(さかみたい) 松戸(まつと)の駅(えき)より東(ひかし)の方(かた)の台(たい)をいふ其広(そのひろさ)南北(なんほく)五百歩(こひゃくほ)はかり  東西(とうさい)四百 歩(ほ)にあまれり鴻台戦記(こうのたいせんき)天文(てんふん)六年十月 国府台合戦(こふのたいかつせん)の  条下(てふか)に松戸(まつと)の川(かは)を打越(うちこえ)御所陣(こしよちん)の内(うち)よりも椎津(しゐつ)村上(むらかみ)堀江(ほりえ)鹿島(かしま)を  始(はしめ)として五十 騎(き)はかり相模台(さかみたい)に打揚(うちあけ)敵(てき)の人数(にんす)を見合(みあは)すとあり 小弓御曹子墓(おゆみおんそうしのはか) 鴻台戦記(こうのたいせんき)義明(よしあきら)滅亡(めつほう)の条下(てうか)に乳母(にうほ)レンセイといひ  ける女房(にようはう)御曹子(おんそうし)の亡屍(なきから)を見(み)むとて人目(ひとめ)を忍(しのひ)此(この)相模台(さかみたい)に来(きた)り  其(その)墓所(はかしよ)に詣(まひ)る由(よし)記(しる)せとも今(いま)其墓(そのはか)の旧跡(きうせき)さたかならす 行徳船場(きやうとくふなは) 行徳(きやうとく)四丁目の河岸(かし)なり土人(としん)新河岸(しんかし)と唱(とな)ふ旅舎(りよしや)あり  て賑(にき)はへり江戸(えと)小網(こあみ)町三丁目の河岸(かし)より此地(このち)迄(まて)船路(ふなち)三 里(り)八町  あり此所(このところ)はすへて房総(はうさう)常陸(しやうりく)等(とう)の国々(くに〳〵)への街道(かいたう)なり 弁財天(へんさいてん)祠 同所四五町下の方 湊村(みなとむら)にあり昔(むかし)は潮除堤(しほよけつゝみ)の松林(まつはやし)の  下(もと)にありしとなり 《割書:其(その)旧地(きうち)を弁天山(へんてんやま)と|号(かう)して石の小祠(こほこら)あり》 今は円妙院(ゑんみやうゐん)に移(うつ)す正徳年間(しやうとくねんかん)  江戸(えと)青山(あをやま)梅窓院(はいさうゐん)の順誉(しゆんよ)唯然和尚(ゆゐねんおしやう)此神(このかみ)の霊爾(れいし)により享保(きやうほ)  三年戊戌 宮居(みやゐ)を建立(こんりふ)ありしといふ祭(まつ)る所(ところ)は芸州(けいしう)厳島(いつくしま)の御神(おんかみ)  に同(おな)しく市杵島姫神(いつきしまひめのかみ)にして海神村(わたつみむら)の阿諏訪神(あすはのかみ)は男神(をとこかみ)当社(たうしや)は

現代語訳

寺僧もすべて追い散らされて、ついに廃寺となったということで、今はその寺号のみを伝えている。 松戸津 常陸街道の宿場町で駅舎がある。更級日記に「鏡の瀬松里の津にとまりて」とあるのは、この地のことを言うのであろうか。《義経記に治承四年九月十一日、武蔵と下総の境である松戸の庄の市河という所に到着されたとあり、昔は松戸の庄の名であったのであろうか》 松戸堤 同所。新利根川の堤防のこと。鴻台戦記に天文六年十月、北条氏綱が小弓御所義明を攻めた頃、その月四日の夜、氏綱が夜中に紛れて浅草川を渡り、大津の宿を夜更けに通り過ぎ、松戸の堤で軍議があったことが記載されている。《大津の宿はどこの地であるか今は分からない。考えるに、葛西に青戸村があり、土地の人は青戸を「あふと」と呼ぶ。また「津」と「戸」とは音が通じるので、あるいは青戸のことを言うのであろう。今戸八幡宮の社記に今戸は元は今津と言ったとあるのも同じ例であろう》 相模台 松戸の駅から東の方の台地のこと。その広さは南北五百歩ほど、東西四百歩余りである。鴻台戦記の天文六年十月国府台合戦の条に、松戸の川を渡り、御所陣の内から椎津・村上・堀江・鹿島をはじめとして五十騎ほどが相模台に上がり、敵の人数を見定めたとある。 小弓御曹子墓 鴻台戦記の義明滅亡の条に、乳母のレンセイという女房が御曹子の亡骸を見ようとして、人目を忍んでこの相模台に来て、その墓所に参ったと記されているが、今はその墓の旧跡は定かではない。 行徳船場 行徳四丁目の河岸で、土地の人は新河岸と呼ぶ。旅籠があって賑わっている。江戸小網町三丁目の河岸からこの地まで船路で三里八町ある。この所はすべて房総・常陸などの諸国への街道である。 弁財天祠 同所の四五町下方の湊村にある。昔は潮除堤の松林の下にあったという。《その旧地を弁天山と号して石の小祠がある》今は円妙院に移している。正徳年間に江戸青山梅窓院の順誉唯然和尚がこの神の霊験により、享保三年戊戌に宮居を建立したという。祀る所は芸州厳島の御神と同じく市杵島姫神で、海神村の阿諏訪神は男神、当社は

英語訳

All the temple monks were scattered and the temple was eventually abandoned, so now only its name is preserved. Matsudo-tsu: A post station on the Hitachi Highway with station facilities. The passage in Sarashina Nikki that mentions "staying at Kagami-no-se Matsusato-no-tsu" may refer to this place. {According to the Gikeiki, on September 11th of Jishō 4 (1180), [Minamoto no Yoshitsune] arrived at a place called Ichikawa in Matsudo-no-shō at the border between Musashi and Shimōsa provinces. Perhaps it was formerly known as Matsudo-no-shō.} Matsudo Embankment: Same location. Refers to the embankment of the New Tone River. The Kōnodai Senki records that in October of Tenbun 6 (1537), when Hōjō Ujitsuna was attacking Oyumi Gosho Yoshiakira, on the night of the 4th of that month, Ujitsuna secretly crossed the Asakusa River in the middle of the night, passed through Ōtsu-no-shuku late at night, and held a war council at the Matsudo embankment. {The location of Ōtsu-no-shuku is unknown today. I believe there is Aoto Village in Kasai, and the locals pronounce Aoto as "afuto." Also, since "tsu" and "to" are phonetically similar, it might refer to Aoto. The shrine records of Imado Hachimangū state that Imado was formerly called Imatsu, which is a similar example.} Sagami-dai: Refers to the plateau east of Matsudo station. Its area is approximately 500 paces from north to south and over 400 paces from east to west. The Kōnodai Senki records that during the Battle of Kōnodai in October of Tenbun 6, after crossing the Matsudo River, about fifty horsemen from the Gosho camp, including those from Shiitsu, Murakami, Horie, and Kashima, climbed up to Sagami-dai to observe the enemy numbers. Tomb of the Oyumi Prince: According to the section on Yoshiakira's destruction in the Kōnodai Senki, a wet nurse named Rensei came secretly to this Sagami-dai to see the prince's corpse and visited his grave, but today the location of that tomb is uncertain. Gyōtoku Boat Landing: The wharf at Gyōtoku 4-chōme, which locals call Shin-gashi (New Wharf). There are inns and it is bustling. The boat route from the wharf at Koami-chō 3-chōme in Edo to this place is 3 ri and 8 chō. This place serves as the highway to various provinces including Bōsō and Hitachi. Benzaiten Shrine: Located in Minato Village, 4-5 chō downstream from the same location. It was formerly situated under a pine grove on the tide-prevention embankment. {The former site is called Benten-yama and has a small stone shrine.} It has now been moved to Enmyō-in. It is said that during the Shōtoku period (1711-1716), the monk Jun'yo Yuinen of Baisō-in in Aoyama, Edo, built the shrine building in Kyōhō 3 (1718) due to the divine blessing of this deity. The deity enshrined is Ichikishima-hime-no-kami, the same as the deity of Itsukushima in Geishū. The Asuwa deity of Watatsumi Village is a male deity, while this shrine is