琉球・沖縄の世界を翻刻する

コレクション: ハワイ大学所蔵 阪巻・宝玲文庫 vol. 1

琉球入貢紀畧 - 翻刻

琉球入貢紀畧 - ページ 14

ページ: 14

翻刻

二百 疋(ひき)、白銀(はくぎん)一万 両(りやう)、大刀(たち)一腰(ひとこし)を献上(けんじやう)す、それより 江戸(えど)に到(いた)りて、将軍家(しやうぐんけ)に謁(えつ)しけるに、米(こめ)一千俵(いつせんべう)を下(くだ) したまふ、さてその年(とし)帰国(きこく)ありて、翌(よく)十六年中山 王 琉球(りうきう)に帰(かへ)ることを得(え)たり、これによりて十二月十五 日、琉球人 駿府(すんふ)へ帰国(きこく)御礼(おんれい)のために参(まゐ)りて、薬種(やくしゆ)及(およ) び方物(はうぶつ)【左注「こころのしな」】くさ〴〵を貢献(こうけん)す、さて中山王 尚寧(しやうねい)降服(かうふく)し てより、永(なが)く吾邦(わがくに)の正朔(せいさく)を奉(ほう)じ、聘礼(へいれい)を修(しゆう)すべき よしの誓(ちか)ひをなしてけり、《割書:系図、旧伝集、政事録、南|浦文集等によりて記す、》これ 今(いま)の入貢(にふこう)の始(はじ)めなり、この後(のち)貢使(こうし)かつて闕(かく)ること なし、   慶長(けいちやう)以後(いご)入貢(にふこう) 寛永(くわんえい)十一年閏七月九日、中山王(ちうざんわう)尚豊(しやうほう)、賀慶使(がけいし)佐敷王(さしきわう) 子(じ)、恩謝使(おんじやし)金武王子(きむわうじ)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:元寛|日記》 この年(とし)、将軍家(しやうぐんけ)御上洛(ごしやうらく)ありて、京都(きやうと)にましますをも て、二条(にでう)の御城(おんしろ)へ登城(とじやう)す、このゆゑに二使(にし)江戸(えど)に来(きた)ら ず、 正保(しやうほ)元年六月廿五日、中山王 尚賢(しやうけん)、賀慶使 金武按(きむあん) 司(す)、恩謝使 国頭按司(くにかみあんす)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、七月

現代語訳

二百疋、白銀一万両、大刀一腰を献上した。それから江戸に到着して、将軍家に謁見したところ、米一千俵を下賜された。さてその年に帰国があって、翌十六年に中山王は琉球に帰ることができた。これにより十二月十五日、琉球人は駿府へ帰国御礼のために参上して、薬種及び方物(心の品)など様々なものを貢献した。さて中山王尚寧が降服してより、永く我が国の正朔を奉じ、聘礼を修するべき旨の誓いをなした。《系図、旧伝集、政事録、南浦文集等によって記す》これが今の入貢の始まりである。この後、貢使が欠けることはなかった。 慶長以後入貢 寛永十一年閏七月九日、中山王尚豊は、賀慶使佐敷王子、恩謝使金武王子等をして、方物を貢した。《元寛日記》この年、将軍家の御上洛があって、京都におられるため、二条の御城へ登城した。このゆえに二使は江戸に来なかった。 正保元年六月二十五日、中山王尚賢は、賀慶使金武按司、恩謝使国頭按司等をして、方物を貢した。七月

英語訳

They presented 200 horses, 10,000 ryō of silver, and one sword. Then they arrived in Edo and had an audience with the Shogun's house, whereupon they were granted 1,000 bales of rice. That year they returned home, and in the following sixteenth year, the King of Chūzan was able to return to Ryukyu. Accordingly, on December 15th, Ryukyuan people came to Sunpu to express gratitude for their return home, contributing medicinal herbs and various tribute goods (gifts from the heart). After King Shō Nei of Chūzan submitted, he made a pledge to forever follow our country's calendar and perform diplomatic ceremonies. 《Recorded based on genealogies, collections of old traditions, political records, Nanpo literary collections, etc.》 This was the beginning of the current tribute system. After this, tribute missions were never absent. Tribute Missions After Keichō On the 9th day of the intercalary 7th month of Kan'ei 11 (1634), King Shō Hō of Chūzan sent congratulatory envoy Prince Sashiki, gratitude envoy Prince Kin, and others to present tribute goods. 《Genkan Diary》 This year, the Shogun went to the capital and was staying in Kyoto, so they ascended to Nijō Castle. For this reason, the two envoys did not come to Edo. On June 25th of Shōhō 1 (1644), King Shō Ken of Chūzan sent congratulatory envoy Kin Aji, gratitude envoy Kunigami Aji, and others to present tribute goods. In the 7th month...