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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之12 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之12 - ページ 12

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翻刻

【右丁】  後(うしろ)に大橋立慶(おほはしりふけい)の別荘(へつさう)の旧跡(きうせき)あり寛永(くわんえい)の頃(ころ)は  大将軍家(たいしやうくんけ)度々(たひ〳〵)此(こゝ)に入らせ給ひしとて假(かり)の御殿(こてん)なとも  搆(かま)へ置(おか)れしとなり昔(むかし)は此地(このち)に鴬宿梅(おうしゆくはい)とて  大樹(たいしゆ)御手自(おんてつから)栽(うゑ)給ひし梅樹(はいしゆ)ありしか後(のち)枯(かれ)たりとて今(いま)はなし  此地(このち)は昔(むかし)鎌倉街道(かまくらかいたう)の通路(つうろ)なりとて鎌倉街道(かまくらかいたう)の楓樹(もみち)と号(なつ)  くるもの今(いま)その境内(けいたい)に存(そん)せり 氷川明神社(ひかはみやうしん  ) 同 寺前(しせん)道(みち)より左(ひたり)にあり下髙田村(しもたかたむら)の産土神(うふすな)に  して南藏院(なんさうゐん)の奉祀(ほうし)なり祭神(さいしん)は素盞烏尊(すさのをのみこと)にして是(これ)を土(と)  俗(そく)《振り仮名:男躰の宮|なんたい  みや》と称(しやう)す《割書:《振り仮名:落合|おちち#1ひ》の氷川明神(ひかはみやうしん)は稲田媛(いなたひめ)を祭(まつ)れりよつて女(によ) |《振り仮名:躰の宮|たい  みや》と称(しやう)し當社(たうしや)を合(あは)せて夫婦宮(ふうふのみや)とす》  毎歳(まいさい)正月十日 祭礼(さいれい)にて奉射(ふしや)の式(しき)あり甚(はなはた)質朴(しつほく)にして古(こ)  雅(か)なり《割書:此(この)御手洗(みたらし)の川(かは)より夷子大黒砂(えひすたいこくすな)と唱(とな)ふるものを産(さん)す此砂(このすな)は|水中(すゐちゆう)に住(すめ)る虫(むし)の化(け)する由(よし)近江(あふみ)古繁先生(こはんせんせい)#2の雲根志(うんこんし)にいへり》 右橋(みきはし) 南藏院(なんさうゐん)の前(まへ)に架(わた)す石橋(いしはし)を号(なつ)く往(ゆく)にも還(かへ)るにも右(みき)の方(かた)に  見(み)るより名(な)とす旧名(きうみやう)を藁塚橋(わらつかはし)と呼(よ)へり 【左丁 絵図】 宿坂関旧址(しゆくさかのせききうし) 金乗院(こんしやうゐん) 観音堂(くわんおんたう)          宿坂      観音          金乗院             此標石             の小路            を行て            浅間坂へ             出る

現代語訳

【右丁】  後ろに大橋立慶の別荘の旧跡がある。寛永の頃は将軍家がたびたびここにお入りになったということで、仮の御殿なども建てられていたという。昔はこの地に鶯宿梅といって、将軍がご自分の手で植えられた梅の木があったが、後に枯れてしまい今はない。  この地は昔鎌倉街道の通り道であったということで、「鎌倉街道の楓」と呼ばれるものが今でもその境内に残っている。 氷川明神社 同寺の前の道から左にある。下高田村の産土神で、南蔵院が祭祀を行っている。祭神は素戔嗚尊で、これを土地の人々は「男体の宮」と称している。《落合の氷川明神は稲田姫を祀っているので「女体の宮」と称し、当社と合わせて夫婦宮とする》  毎年正月十日が祭礼で、弓射の儀式がある。非常に質朴で古雅である。《この手洗いの川から夷子大黒砂と呼ばれるものが産出される。この砂は水中に住む虫が化したものだと、近江の古繁先生の『雲根志』に記されている》 右橋 南蔵院の前に架けられた石橋の名前。行くにも帰るにも右の方に見えることから名付けられた。旧名を藁塚橋と呼んでいた。 【左丁 絵図】 宿坂関旧跡 金乗院 観音堂          宿坂      観音          金乗院             この標石             の小路            を行って            浅間坂へ             出る

英語訳

【Right page】  Behind there is the old site of Ōhashi Rikei's villa. During the Kan'ei period (1624-1644), the Shogun's family frequently visited here, and temporary palaces were built. In ancient times, there was a plum tree called Ōshukubai at this location, which the Shogun had planted with his own hands, but it later withered and no longer exists.  This area was once part of the Kamakura Highway, and what is called the "maple of Kamakura Highway" still remains within the grounds today. Hikawa Myōjin Shrine Located to the left from the road in front of the same temple. It is the tutelary deity of Shimo-Takada Village, and Nanzōin Temple conducts the religious services. The deity enshrined is Susanoo-no-Mikoto, which the local people call "Nantai-no-miya" (Shrine of the Male Deity). 《The Hikawa Myōjin of Ochiai enshrines Inada-hime, so it is called "Nyotai-no-miya" (Shrine of the Female Deity), and together with this shrine they form a married couple shrine》  Every year on the 10th day of the first month there is a festival with an archery ceremony. It is very simple and elegant in the ancient style. 《From the purification river here, something called "Ebisu Daikoku sand" is produced. This sand is said to be transformed from insects living in the water, as recorded in the "Unkonshi" by Master Kohan of Ōmi}} Migi-bashi (Right Bridge) The name of the stone bridge built in front of Nanzōin Temple. It was named because it can be seen on the right side both when going and returning. Its old name was Waratsuka Bridge. 【Left page Illustrated map】 Shukusaka Checkpoint ruins Konjōin Temple Kannon Hall          Shukusaka      Kannon          Konjōin             This marker stone's             path            leads to            Sengen-zaka             slope