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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之12 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之12 - ページ 25

ページ: 25

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【右丁】  なり祭礼(さいれい)は正五九月の十七日なり《割書:當社(たうしや)に元亀(けんき)の年号(ねんかう)ある|庚申待供養(かうしんまちくやう)の古碑(こひ)あり》 大日堂(たいにちたう) 同 西(にし)の方(かた)大日坂(たいにちさか)にあり天台宗(てんたいしう)にして覚王山(かくわうさん)妙足院(めうそくゐん)と  号(かう)す相傳(あひつた)ふ本尊(ほんそん)大日如来(たいにちによらい)は慈覚大師(しかくたいし)唐(もろこし)より携来(たつさへきた)る所(ところ)の霊像(れいさう)  なり往古(そのかみ)は叡山(えいさん)の中(うち)に安置(あんち)ありしを元亀年間(けんきねんかん)織田信長(おたのふなか)忩門(さうもん)  を襲(おそ)はるゝ頃(ころ)堂宇(たうう)悉(こと〳〵)く兵火(へうくわ)に罹(かゝ)りて灰燼(くわいしん)となるされと此(この)本(ほん)  尊(そん)は火焔(くわえん)を遁(のか)れ出(いて)近江國(あふみのくに)兵主明神(ひやうすみやうしん)の社頭(しやとう)深林(しんりん)の中(うち)に  移(うつ)り給ひ其後(そのゝち)夜(よな)〳〵瑞光(すゐくわう)を放(はな)ち給ふよつて藤原氏(ふちはらうち)某(それかし)感(かん)  得(とく)して其家(そのいへ)に移(うつ)しまゐらせ旦暮(あけくれ)供養(くやう)する事 怠(おこた)りなし  然(しかる)に此人(このひと)嗣子(いうし)なきを憂(うれ)へとし此尊(このそん)に祈求(きくう)して竟(つひ)に一 女子(によし)を  ■(もふ)#1く長(ちやう)するに及(およ)んて紀伊亜相(きいあしやう)頼宣卿(よりのふきやう)に仕(つか)へ奉り後(のち)落飾(らくしよく)して  法善尼(ほふせんに)と号(かう)す此尼(このあま)霊夢(れいむ)を感(かん)するの後(のち)當寺(たうし)を闢(ひら)きこゝに  安置(あんち)し奉(たてまつ)りしといへり 大洗堰(おほあらひせき) 目白(めしろ)の涯下(かいか)にあり承應年間(しやうおうねんかん) 嚴命(けんめい)により當國(たうこく) 【左丁】  多磨郡(たまこほり)牟禮邑(むれむら)井頭(ゐのかしら)の池水(ちすゐ)をして江戸大城(えとたいしやう)の下(もと)に通(つう)せし  む其頃(そのころ)此地(このち)に堰(ゐせき)を築(きつか)せられ其(その)上水(しやうすゐ)の餘水(よすゐ)を分(わけ)らるゝ天明(てんめい)  六年丙午の洪水(こうすゐ)に堰(いせき)崩(くつ)れたりこゝに於(おい)て再(ふたゝ)ひ堅固(けんこ)に築(きつか)せ  られ古(いにしへ)より壹尺はかり其(その)髙(たか)さを減(けん)す故(ゆゑ)に水(みつ)嵩(かさむ)時(とき)は其上(そのうへ)を  越(こえ)て流(なか)れ落(おつ)る故(ゆゑ)に損(そん)する患(うれひ)なしといへり 龍隠庵(りうけあん) 同所 上水堀(しやうすゐほり)の端(はた)にあり昔(むかし)は真言宗(しんこんしう)にして安楽寺(あんらくし)と  号(なつ)く故(ゆゑ)ありて元禄(けんろく)十年丁丑 黄檗宗(わうはくしう)に改(あらた)め洞雲寺(とううんし)の持(もち)と  なり《割書:洞雲寺(とううんし)は音羽町(おとはまち)八丁|目の西(にし)の裏(うら)にあり》平石和尚(へいせきおしやう)住持(ちゆうち)す本尊(ほんそん)は正観世音(しやうくわんせおん)慈覚(しかく)  大師(たいし)の彫造(てうさう)といふ庵(いほり)の前(まへ)には上水(しやうすゐ)の流(なか)れ横(よこ)たはり南(みなみ)に早稲田(わせた)の  耕田(こうてん)を望(のそ)み西(にし)に芙蓉(ふよう)の白峯(はくはう)を顧(かへり)みる東(ひかし)は堰口(せきくち)にして水音(すゐおん)  冷々(れい〳〵)として禅心(せんしん)を澄(すま)しめ後(うしろ)には目白(めしろ)の臺(たい)聳(そひ)へたり月(つき)の夕(ゆふへ)雪(ゆき)の  朝(あした)の風光(ふうくわう)も又 備(そなは)れり昔(むかし)上水(しやうすゐ)開発(かいほつ)の頃(ころ)芭蕉翁(はせををう)《割書:芭蕉翁(はせををう)通称(つうしよう)|松尾甚七郎(まつをしん    )と》  《割書:いひ藤堂家(とうたうけ)の士(さふらひ)たり此(この)上水(しやうすゐ)掘割(ほりわり)の時(とき)藤堂家(とうたうけ)へ普請(ふしん)の事(こと)を命(めい)せられしに|甚七郎 此事(このこと)を司(つかさと)りし故(ゆゑ)其頃(そのころ)此地(このち)に日々(ひゝ)遊(あそ)はれしといへり》

現代語訳

【右丁】 である。祭礼は正月・五月・九月の十七日である。《当社には元亀の年号がある庚申待供養の古碑がある》 大日堂 同じく西の方、大日坂にある。天台宗で覚王山妙足院と号する。相伝によると、本尊の大日如来は慈覚大師が唐より携え来た霊像である。往古は叡山の中に安置されていたが、元亀年間(1570-1573)に織田信長が比叡山を襲った頃、堂宇がことごとく兵火にかかって灰燼となった。しかしこの本尊は火焔を逃れ出て、近江国兵主明神の社頭深林の中に移られ、その後夜ごと瑞光を放たれた。そこで藤原氏の某が感得してその家に移し奉り、朝夕の供養を怠りなく行った。  ところがこの人に跡継ぎがないことを憂い、この尊像に祈求して、ついに一女子を授かった。長じるに及んで紀伊亜相頼宣卿に仕え奉り、後に落飾して法善尼と号した。この尼が霊夢を感じた後、当寺を開き、ここに安置し奉ったという。 大洗堰 目白の涯下にある。承応年間(1652-1655)、厳命により当国 【左丁】 多摩郡牟礼村井頭の池水を江戸大城の下に通じさせた。その頃この地に堰を築かせられ、その上水の余水を分配した。天明六年丙午(1786)の洪水に堰が崩れた。ここにおいて再び堅固に築かせられ、古来より一尺ほどその高さを減じた。故に水嵩の時はその上を越えて流れ落ちるため、損害の患いがないという。 龍隠庵 同所、上水堀の端にある。昔は真言宗で安楽寺と号していた。故あって元禄十年丁丑(1697)、黄檗宗に改め、洞雲寺の持寺となった。《洞雲寺は音羽町八丁目の西の裏にある》平石和尚が住持する。本尊は正観世音で慈覚大師の彫造という。庵の前には上水の流れが横たわり、南に早稲田の耕田を望み、西に芙蓉の白峰を顧みる。東は堰口で水音が冷々として禅心を澄ませ、後ろには目白の台がそびえている。月の夕べ雪の朝の風光もまた備わっている。昔、上水開発の頃、芭蕉翁《芭蕉翁は通称松尾甚七郎といい、藤堂家の士であった。この上水掘割の時、藤堂家へ普請の事を命じられ、甚七郎がこの事を司ったため、その頃この地に日々遊ばれたという》