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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之12 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之12 - ページ 5

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翻刻

【右丁】 和田戸山(わたとやま) 尾陽君(ひやうくん)御舘(おんやかた)の地(ち)なり是(これ)を戸山御邸(とやまおんやしき)と云(いふ)《割書:戸山(とやま)或(あるひ)は|外山(とやま)に作(つく)る》土人(としん)相(あひ)  傳(つた)ふ此地(このところ)は往昔(そのかみ)和田戸(わたと)何某(なにかし)とかやいひし武士(ものゝふ)の住(すみ)し所(ところ)にして右(う)  大將(たいしやう)頼朝卿(よりともきやう)隅田川(すみたかは)より此地(このち)に至(いた)り和田戸(わたと)か第(てい)に入(いり)給ひ軍㔟(くんせい)の  労(らう)を休(やす)められしことありしといへり《割書:今(いま)其地(そのち)に和田戸明神(わたとみやうしん)|といへる宮社(きうしや)ありと云》髙田馬塲(たかたはゝ)の  南(みなみ)尾州御山屋鋪(ひしうおんやまやしき)へ行方(ゆくかた)の畑(はた)の中(うち)に一條(  てう)の道(みち)あり里老(りらう)傳(つた)へて  上古(しやうこ)の鎌倉海道(かまくらかいたう)なりといへり 荒藺山(あらゐやま) 同所 戸山(とやま)と大窪(おほくほ)《振り仮名:諏訪の森|す は  もり》との間(あひた)をいふ此(この)あたりは  雲雀(ひはり)の名所(めいしよ)なり 《振り仮名:山吹の里|やまふき  さと》 《振り仮名:髙田の馬塲|たかた  は ゝ 》北(きた)の方(かた)の民家(みんか)の辺(あたり)をしか唱(とな)ふ《割書:此地(このち)|を今(いま)》  《割書:向砂利(むかふしやり)|塲(は)と号(かうす)》相傳(あひつたふ)太田持資(おほたもちすけ)江戸(えと)在城(さいしやう)の頃(ころ)一日 戸塚(とつか)の金川(かなかは)辺(へん)に  放鷹(はうよう)す其時(そのとき)携(たつさ)ふる所(ところ)の鷹(たか)翥(それ)て飛去(とひさり)ければ跡(あと)を追(お)ひて  こゝに来(きた)る时(とき)に急雨(きうう)頻(しきり)なれは傍(かたはら)の農家(のうか)に入(いつ)て簑(みの)を乞(こ)ふ内(うち)より  小女(せうちよ)出(いてゝ)《振り仮名:盛|た#1かり》なる山吹(やまふき)の花(はな)を手折(たをり)て是(これ)を持資(もちすけ)に捧(さゝ)くされとも 【左丁】  詞(ことは)を出(いた)さす持資(もちすけ)其意(そのい)を悟(さと)る事を得(え)すして却(かへつ)て憤(いきとほり)を含(ふく)み家(いへ)に  帰(かへ)り近臣(きんしん)に事(こと)のありさまを物語(ものかたり)す中(なか)に一人 進(すゝみ)出て云(いは)く是(これ)は簑(みの)の  なきといへる事ならん古哥(こか)に    七重八重花はさけとも山吹のみの ひとつ(後拾遺集ひとへ)たになきそ わひしき(同かなしき)  かく詠(えい)せし和哥(わか)の心をもて答(こた)へ奉(たてまつ)りしならんと申けれは持資(もちすけ)  深(ふか)く恥(はち)て後(のち)和哥の道(みち)を慕(した)ふと云々  《割書:此(この)七重八重(なゝへや   )の和哥(わか)は後拾遺集(こしふいしふ)に中務卿(なかつかさのきやう)兼明親王(かねあきらしんわう)の詠(えい)とす其(その)言葉書(ことはかき)に云(いは)く|小倉(をくら)の家(いへ)に住(すみ)はへりける頃(ころ)雨(あめ)のふりける日(ひ)簑(みの)かる人のはへりけれは山吹(やまふき)の枝(えた)を折(をり)て》  《割書:とらせてはへりけり心(こゝろ)もえてまかりすきてまたの日山吹のこゝろもえさりしよし|いひおこせてはへりける色事にいひつかはしけるとあり》     《割書:按(あんする)に此 山吹(やまふき)の里(さと)の事は和漢三才図會(わかんさんさいつゑ)およひ俗説弁(そくせつへん)艶道通鑑(ゑんたうつかん)等(とう)の中(うち)に出(いつ)る|といへとも戸塚(  つか)の金川(かな  )といへるに思(おも)ひよせて鎌倉(かまくら)なりしとしまたは東海道(とうかいたう)の方(はう)驛(ゑき)》     《割書:神奈川(かな  )なといへと皆(みな)其実(そのしつ)を得(え)たるにあらさるへし穴八幡(あなはちまん)の前(まへ)を宝泉寺(はうせんし)の方(かた)へ|流(なか)るゝ小溝(こみそ)を今(いま)蟹川(かにかは)といふ昔(むかし)は加牟川(かに  )と唱(とな)へけるとなり是(これ)先(さき)にいふ所(ところ)の》     《割書:かな川ならん欤(か)其(その)是非(せひ)は詳(つまひらか)にせすといへともしはらくこゝに云傳(いひつた)ふるに任(まか)せて|是(これ)を举(あく)るのみ》 三島山(みしまやま) 同所 民家(みんか)の後園(こうゑん)にあり古松(こしやう)四五株(しこちゆう)繁茂(はんも)せる樹蔭(しゆいん)に三嶋  明神(みやうしん)の禿倉(ほこう)あり相傳(あひつた)ふ右大將(うたいしやう)頼朝卿(よりともきやう)此(この)高田(たかた)の地(ち)に軍兵(くんへう)㔟揃(せいそろへ)

現代語訳

【右丁】 和田戸山(わたとやま) 尾張藩主の御屋敷の敷地である。これを戸山御邸と呼ぶ(戸山または外山と書く)。地元の人の言い伝えによると、この地は昔、和田戸何某という武士が住んでいた所で、右大将源頼朝公が隅田川からこの地に至り、和田戸の屋敷に入って軍事の疲労を休められたことがあったという(今その地に和田戸明神という神社があるという)。高田馬場の南、尾州御山屋敷へ行く方角の畑の中に一筋の道があり、里の老人の言い伝えでは、昔の鎌倉街道だという。 荒藺山(あらいやま) 同じ場所。戸山と大窪(諏訪の森)との間を指す。このあたりは雲雀の名所である。 山吹の里 高田の馬場の北の方の民家のあたりをそのように呼ぶ(この地を今は向砂利場と号する)。言い伝えによると、太田持資が江戸に在城していた頃、ある日戸塚の金川のあたりで鷹狩りをした。その時連れていた鷹が舞い上がって飛び去ったので、跡を追ってここに来た時、急に雨が激しくなったので、傍らの農家に入って蓑を求めた。家の中から小さな女が出てきて、たくさん咲いている山吹の花を手折って、これを持資に差し出したが、 【左丁】 言葉を発することなく、持資はその意味を理解することができずに、かえって憤りを含んで家に帰り、近臣に事の次第を物語った。その中の一人が進み出て言うには、「これは蓑がないということでしょう。古歌に『七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき』(後拾遺集では『実の一つだになきぞわびしき』)と詠んだ和歌の心をもって答え申し上げたのでしょう」と申したので、持資は深く恥じて、後に和歌の道を慕うようになったという。 (この七重八重の和歌は後拾遺集に中務卿兼明親王の作とする。その詞書に言うには、小倉の家に住んでいた頃、雨の降った日に蓑を借りる人がいたので、山吹の枝を折って与えていた。心も得ずに過ごして、また翌日、山吹の心も得なかった旨を言ってよこしていたという。色恋沙汰に言い交わしたということである。 なお、この山吹の里の事は和漢三才図会および俗説弁、艶道通鑑等の中に出るというが、戸塚の金川というのに思いを寄せて鎌倉のこととしたり、また東海道の方の駅神奈川などというが、みなその実を得たものではないだろう。穴八幡の前を宝泉寺の方へ流れる小溝を今蟹川という。昔は加牟川と呼んでいたということである。これが先に言う所のかな川であろうか。その是非は詳らかにしないが、しばらくここに言い伝えるに任せてこれを挙げるのみである) 三島山(みしまやま) 同じ場所。民家の後園にあり、古松四、五株が繁茂する木陰に三島明神の祠がある。言い伝えによると、右大将源頼朝公がこの高田の地で軍兵の陣揃え

英語訳

【Right Page】 Watato-yama (Watato Mountain) This is the land of the Owari domain lord's residence, called Toyama Mansion (written as either Toyama or Sotoyama). According to local tradition, this place was once the residence of a warrior called Watato So-and-so, and Minamoto no Yoritomo, the Right General, came from the Sumida River to this place, entered Watato's residence, and rested from military campaigns (it is said that there is now a shrine called Watato Myōjin at that location). South of Takada Horse Ground, in the fields toward the Bishū mountain estate, there is a single road, which according to village elders' tradition was the ancient Kamakura Highway. Arai-yama (Arai Mountain) Same location. Refers to the area between Toyama and Ōkubo (Suwa Forest). This area is famous for skylarks. Yamabuki no Sato (Kerria Rose Village) This is what they call the area around the private houses north of Takada Horse Ground (this place is now called Mukō-Jari-ba). According to tradition, when Ōta Mochisuke was stationed at Edo Castle, one day he went hawking near Kanagawa in Totsuka. When the hawk he brought soared up and flew away, he pursued it and came here. As it suddenly began raining heavily, he entered a nearby farmhouse and asked for a rain cape. A young woman came out from inside and picked some abundantly blooming kerria rose flowers, offering them to Mochisuke, but 【Left Page】 without speaking a word. Mochisuke could not understand her meaning and returned home with resentment, telling his retainers about what had happened. One of them stepped forward and said, "This must mean there was no rain cape. In an ancient poem: 'Though kerria roses bloom in layers seven and eight deep, how sad that not even one bears fruit' (in the Goshūi-shū it says 'how pitiful'). She must have answered using the heart of this waka poem." When he heard this, Mochisuke was deeply ashamed and later came to pursue the way of waka poetry. (This "seven and eight layers deep" waka is attributed to Prince Kaneakira, the Minister of the Center, in the Goshūi-shū. Its preface says that when he was living in the house at Ogura, on a rainy day when someone came to borrow a rain cape, he had them take a branch of kerria roses. Unable to understand the meaning, he let it pass, and the next day they sent word that they had not understood the meaning of the kerria roses either. It was said to be an exchange in a romantic affair. Note: This story of Yamabuki no Sato appears in the Wakan Sansai Zue, Zokusetsu-ben, Endō Tsūkan and other works, but some associate it with Kanagawa in Totsuka and claim it was in Kamakura, or say it was at Kanagawa station on the Tōkaidō, but none of these seem to capture the truth. The small ditch that flows from in front of Ana Hachiman toward Hōsen-ji is now called Kani-gawa (Crab River). In ancient times it was called Kamu-gawa. This might be the Kanagawa mentioned earlier. Though the truth of this is not clear, I simply record what is traditionally told here.) Mishima-yama (Mishima Mountain) Same location. Located in the back garden of a private house, with a shrine to Mishima Myōjin in the shade of four or five flourishing old pine trees. According to tradition, Right General Minamoto no Yoritomo assembled his military forces at this Takada location