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当(あた)つて善者(ぜんしや)といへども。免(まぬか)るゝこと甚(はなはだ)だ難(かた)し。たゞ|時(とき)の幸不(かうふ)幸のみ。思(おも)ひも
かけざる変災(へんさい)に遭(あ)ひ。騒擾(さうぜう)恐懼(きようく)の時(とき)において。常〻(つね〳〵)至孝(しいかう)あるひは忠|節(せつ)。
その心がけよき人の。自(おのづ)から功(こう)を顕(あらは)したるあり。今|伝聞(でんぶん)する処(ところ)の。二三を
挙(あげ)て後生(こうせい)を励(はげ)ます。然れどもその住所(ぢうしよ)姓名(せいめい)の詳(つばら)なるも。憚(はゞかり)なきに
あらねば記(しる)さず
○孝婦(かうふ)非命(ひめい)に死(し)すの条(くだり)
于茲(こゝに)武州(ぶしう)千住宿(せんぢゆじゆく)。こは日光道(にくわうだう)中の出口(でぐち)にて。大小(だいせう)の旅店(りよてん)軒(のき)をならべ。
辺鄙(へんひ)といへども繁華(はんくわ)なり。こゝに何某(なにがし)といへる商賈(あきびと)の嫁(よめ)。その年二十
一二なりしが。常(つね)に姑(しうとめ)によく仕(つか)へて。孝行(かう〳〵)をつくしける。然(しか)るにその夜(よ)の
変災(へんさい)にあひ。家内(かない)の男女十五六人。破驚(すは)地震よといひも果(はて)ず。外面(そとも)を
斥(さし)て逃出(にけいづ)る。かの嫁(よめ)は子舎(へや)に在(あり)て針線(はりしごと)をなしけるが大(おほい)に駭(おどろ)きて針(はり)を捨(すて)。
矢庭(やには)に戸(と)を蹴(け)ひらきて。庭(には)の方(かた)へ立出(たちいづ)るに。瓦(かはら)の落(おつ)ること凩(こがらし)に。木(こ)の葉(は)の
散(ちる)に異(こと)ならず。蔀(しとみ)格子(かうし)もみるがうちに。忽地(たちまち)摧(くじ)け倒(たほ)れたり。こは什(そ)
麽(も)いかなる珍事(ちんじ)ぞと。眼(まなこ)も瞑(くら)み胸(むね)轟(とゞろ)き。渾身(みうち)戦(わな〳〵)慄と震(ふる)ひつゝ。其処(そこ)
に倒(たほ)れて在(あり)けるが。佶(き)と心(こゝろ)づきて四辺(あたり)を見まはし。姑(しうとめ)の見えざるは。老(らう)
人(じん)の足(あし)弱(よわ)くて。出(いで)かね給ひしものならん。と声(こゑ)を限(かぎ)りにこれを呼(よべ)ば。案(あん)の
如(ごと)く姑(しうとめ)は。駭(おどろ)きて逃出(にげいで)んと。身(み)は起(おこ)せしかど歩行(あゆみ)がたく。殊(こと)に燈火(ともしび)は頓(とみ)
に消(き)え。心(こゝろ)周章(あはて)て途方(とはう)にくれ。呻吟(さまよふ)うちに震(ゆり)強(つよ)く。障子(しやうじ)外(はづ)れ鴨居(かもゐ)
ぬけて。行先(ゆくさき)に横(よこた)たわり。進退(しんたい)の度(ど)を失(うしな)ひて。更(さら)に生(いき)たる心地(こゝち)もなきに。
嫁(よめ)の声(こゑ)して母(はゝ)さまは。何方(いづく)に在(おは)すと数回(あまたゝび)。呼(よ)ぶ声(こゑ)の聞(きこ)ゆるに。姑(しうとめ)は力(ちから)を得(え)
て。応(おう)此処(こゝ)ぞと回答(いらへ)ながら。それを郷導(しるべ)に出(いで)んとす。嫁(よめ)は姑(しうとめ)の声(こゑ)を聞(きく)。
まだ家(いへ)の内(うち)に在(おは)せしか。頓〻(とく〳〵)此方(こなた)へ出(いで)給へ。と叫(さけ)びながら駈入(かけい)りて矢庭(やには)に姑(しうとめ)