翻刻
に。おん身はこゝに在(あ)りて家(いへ)を護(まも)れ。といひ捨(すて)て駈(かけ)出しが。此所等は
殊更地震剛(ことさらぢしんつよ)く。且家作さへ舊(ふり)たれば。大かた倒(たほ)れざる家もあらず。
然るに家並(いへなみ)五六|軒(けん)。ゆきける所に女の声して。嗟苦(あなくる)し助(たすけ)てよ。と呼(よば)る
声(こゑ)をほのきけば。かの娘(むすめ)によく似(に)たり。柏屋(かしはや)はいぶかりて。其処か此処かと
たづぬるに。傍(かたへ)の檐(のき)の崩(くづ)れし下に。身を挟(はさ)まれて起(おき)もあがらず。頻(しき)りに
叫(さけ)ぶはその娘(むすめ)なり。柏屋見るより大に駭(おどろ)き。さればこそ我と俱(とも)に。往(ゆき)
なばかゝる過(あやまち)あらじを。怪(けし)からぬことしてげり。といひながら檐口(のきぐち)の。倒(たほ)れ
し桁(けた)に手をかけて。引起(ひきおこ)さんとなしけれど。生憎(あやにく)に桁(けた)大きくして。一人
の力に動(うごき)もやらず。その辺(ほとり)にも老若男女(らうにやくなんによ)。右往左往(うわうざわう)に群(むら)がれど。
親(おや)は子を見失(みうしな)ひ。妻(つま)は夫を索(たづ)ねつゝ。呻吟(さまよふ)なれば誰(たれ)あつて。これを
扶(たすけ)んとするものあらず。兎角(とかく)する間(ま)に二三|軒(げん)。こなたより火燃(ひも)え出て。
忽地猛火熾(たちまちみやうくわさかん)になり。焔(ほのほ)八方に飛(と)びちるほどに。破驚(すは)火事よと銘〻(めい〳〵)に。
崩(くづ)れし家(いへ)を掻除(かきのけ)て。資財雑具(しざいざふぐ)を出さんとす。この時圧(ときおし)に打(うた)れながら。
まだ死(しに)やらず猛火(みやうくわ)の為(ため)に。燔(やか)れんとするものゝ。声(こゑ)を限(かぎ)りに泣(な)き叫(さけ)び。助(たす)
けてよと人を呼(よ)ぶ。実(じつ)に焦熱(せうねつ)の苦(くる)しみも。これには過(すぎ)じと思ふほどに。柏(かしは)
屋(や)は是等(これら)の声(こゑ)に。胸(むね)さへ得〻(どき〳〵)と轟(とゞろ)き狂(くる)ひ。心急(こゝろせき)てかの桁(けた)を。揚(あげ)んとすれ
ど力及(ちからおよ)ばず。當下柏屋(そのときかしはや)の妻は焔(ほのほ)に駭(おどろ)き。夫(をつと)を索(たづ)ねてこゝに来れば。柏屋
はよくこそ来(き)ぬれ。力を副(そへ)てこの桁(けた)を。引起(ひきおこ)せといふほどに。妻(つま)も心(こゝろ)の利(きゝ)たる者(もの)
にて。彼方(かなた)へ廻(まは)り諸手(もろて)をかけ。力を究(きは)めて引けれど。垂木壁土屋根瓦(たるきかべつちやねかはら)。
いやが上に重(かさな)りたれば。なか〳〵に動(うご)かし難(がた)し。夫婦(ふうふ)はしきりに心を焦燥(いらち)て。扶(たすけ)ん
とすれど術計(じゆつけい)あらず。その間(ひま)に焼誇(やけほこ)る。火焔(くわえん)は既(すで)に近(ちか)づきて。はや身の上
に及んとす。この時娘(ときむすめ)は弱(よわ)り果(はて)たる。声(こゑ)を出して夫婦(ふうふ)を呼(よ)び。御|志(こゝろざし)は然(さ)ること