翻刻
〇孝女死期(かうじよしご)に紀念(かたみ)を託(たく)す條(くだり)
こゝに哀(あは)れをとゞめしは。深川冨川町(ふかかはとみかはちやう)の辺(ほとり)とかや。柏屋(かしはや)の何某(なにがし)なる者(もの)。以(い)
前(ぜん)は有徳(うとく)に暮(くら)しゝが。薄命(ふしあはせ)のうち続(つゞ)き。今(いま)は次第(しだい)に困窮(こんきう)して。召仕(めしつかひ)
にも暇(いとま)をとらせ。たゞ夫婦(ふうふ)さし對(むか)ひにて。いと淋(さみ)しく送(おく)りけるが十月三日
は過(すぎ)さりし。母(はゝ)の年忌(ねんき)にあたるにより。心(こゝろ)ばかりの佛事(ふつじ)をいとなみ。親(したし)き
人(ひと)にも供養(くやう)せん。と同二日は逮夜(たいや)とて。朝(あさ)まだきより野菜(やさい)を調(とゝの)へ。米(こめ)
など炊(かし)くをりから。僅(わづか)一二|町(ちやう)を隔(へ)だてし所(ところ)に。大工何某(だいくなにがし)なるものゝ
娘二十(むすめはたち)ばかりになりけるが。日来(ひごろ)親(した)しく往(ゆき)かふにより。今日(けふ)の佛事(ぶつじ)の手(て)
傳(つだ)ひせんとて。この家(いへ)に来(きた)りつゝ。いと甲斐(かひ)〴〵しく働(はたら)きて。夫婦が手をぞ
助(たす)けける。かくて其夜(そのよ)戌時頃(いつゝごろ)。その事も大(おほ)かた果(はて)て娘(むすめ)は帰(かへ)らんといひけるを。
柏屋(かはしや)【(かしはや)の誤りか】夫婦(ふうふ)はこれを止(とゞ)め。はや亥刻(よつ)にも程近(ほどちか)からんに。今宵(こよひ)は泊(とま)りて
翌(あす)の朝(あさ)。とく帰(かへ)られよといふほどに。その意に任(まか)して逗(とゞま)りつゝ。猶とりちら
せし調度(てうど)など。推(おし)かたづけて亥刻(よつ)もうちぬ。はや憩(やすま)んと床(とこ)なンど。敷(しか)ん
としたるその折から。暴(にはか)に虚空動揺(こくうどうえう)なし。その家将(いへまさ)に覆(くつがへ)らんとす。三
人(たり)は大(おほい)に駭(おどろ)きて。表(おもて)の戸を引開(ひきあけ)て。矢庭(やには)に走(はし)り出けるが。柏屋の檐倒(のきたほ)
れて。大道(だいだう)へ横(よこ)たはる。今少(いますこ)し遅(おそ)からばこの檐(のき)に打れつゝ。身を傷(やぶ)んを
危(あや)ふかりしと吐息吻(といきつき)て跪(つゞ)み居(ゐ)る。かの娘(むすめ)はこれを見て。父母(ふぼ)の身の
うへ心許(こゝろもと)なし。暇(いとま)まうすといひも敢(あへ)ず。一散(いつさん)に駈出(かけいだ)す。夫婦(ふうふ)は呼(よ)び止(と)め
尤なり。今|諸共(もろとも)に行(ゆき)て訪(とは)ん。霎時待(しばしまち)ねといひけれど。聞えしやまた
聞えずや。回答(いらへ)もせずして走(はし)りゆけば。柏屋(かしはや)は妻(つま)に向ひ。日来(ひごろ)よりし
て孝心(かうしん)の世に勝(すぐ)れたるものなれば。心裡(こゝろのうち)然(さ)もあるべし。程近(ほどちか)けれど
夜更(よふけ)けたり一人やは帰(かへ)されじ。我(われ)は跡(あと)より逐着(おひつき)て。彼家(かのや)へ送(おく)り達(とゞけ)ん