翻刻
ながら。今ははや火も近(ちか)づきて。免(のが)れんとするに所なし。憖妾(なまじひわらは)を扶(たすけ)んとして。
御|身等(みら)までに怪我(けが)あらば。いよ〳〵この身(み)の罪深(つみふか)かり。はや捐(すて)おきて少しも
はやく。火を遁(のか)れ給へかし。所詮(しよせん)この身は罪業深(ざいごふふか)く。かゝる憂目(うきめ)にあふとも。
前(まへ)の世(よ)の宿業(しゆくごふ)にやと。思(おも)へば今さら詮方(せんかた)なし。頓〻(とく〳〵)こゝを去(さ)り給へ。さはれ
御身等も知(し)らるゝごとく。父母(ちゝはゝ)ともに年老(としおい)て。仂(はした)なけれど妾(わらは)をのみ。世には
憑(たの)みと思ふめり。然(しか)るをこゝにて死(し)すならば。誰(たれ)を便(たよ)りて世(よ)を渡(わた)らん。願(ねがは)くは
御身ら夫婦妾(ふうふわらは)に代(かは)りて父母(ちゝはゝ)の。行末(ゆくすゑ)を頼(たの)み参らす。これのみ死期(しご)の
願(ねが)ひなり。とこの時(とき)に及(およ)びても。猶(なほ)父母を慕(した)ふなる。切(せつ)なる心に柏や夫婦は。
涙(なみだ)はら〳〵と流(なが)しつゝ。その事のみは心易(こゝろやす)かれ。われ〳〵|命(いのち)のあらんほどは。よく貢(みつ)
ぎてまゐらすべし。と回答(いらへ)に娘(むすめ)は歓(よろこ)びて。頭(かうべ)に挿(さし)たる蒔絵(まきゑ)の櫛(くし)と。簪(かんざし)とを
手自抜(てづからぬき)とり。柏屋(かしはや)の妻(つま)にわたしていふやう。這(こ)は年来頭(としごろかうべ)に挿(さし)て大切(たいせつ)に持(もち)
しもの。これを母(はゝ)に与(あた)へられ。わが紀念(かたみ)として思ひ出(いづ)る。時(とき)だにあらば一遍(いつへん)の。回(ゑ)
向(かう)をして給はれ。と言傳(ことづて)給へといふうちにも。はや猛火近(みやうくわちか)づきて。渾身(みうち)も熱(あつ)
きほどなれば。柏屋夫婦(かしはやふうふ)は不便(ふびん)さに。猶去(なほさ)るに忍(しの)びざるを。娘(むすめ)は頓〻(とく〳〵)遁(のが)れ
給へ。甲斐(かひ)なきこの身(み)に拘(かゝ)ずらひ。過(あやまち)あらば悔(くゆ)とも返(かへ)らず。去来頓(いざとく)〳〵といふ
ほどに。夫婦(ふうふ)は浪残(なごり)をしけれど。さて如何(いかに)とも詮方(せんかた)なければ。涙(なみだ)ながらに
立退(たちさり)つゝ。わが家(や)も火(ひ)には近(ちか)づきぬ。及(およ)ばぬまでも着替(きがへ)の衣類(いるゐ)。なくて協(かな)は
ぬ調度(てうど)をも。一ツ二ツとり出(だ)さん。と内(うち)へいれども八方(はつはう)へ。吹(ふき)ちる烟(けふり)に咽哽(のんどむ)せ。
眼(まなこ)にいりて働(はたら)き得(え)ず。はや覆(くつがへ)りし檐口(のきぐち)へ。火(ひ)さへ燃(もえ)つきたりければ。はや是(これ)
までと僅(わづか)ばかりの。袱裹(ふろしきづゝ)みを背負(せおひ)つゝ。その所(ところ)をのがれ出(いで)。頓(やが)て大工(だいく)の方(かた)に
至(いた)り。見るにこゝなんわが方(かた)より。震軽(なゐかろ)きにや崩(くづ)れは少(すくな)し。故(ゆゑ)に恙(つゝが)あらざれば。
まづ歓(よろこ)びて件(くだん)のよしを。委(くは)しく語(かた)り櫛簪(くしかんざし)を。出(いだ)して母(はゝ)に与(あたふ)れば。母(はゝ)は狂(きやう)