翻刻
気のごとくになり。かの焼址(やけあと)へ馳(はせ)つきて。見るに娘(むすめ)は焦(こ)げ薫(ふすぼ)りて。在(あり)し姿(すがた)に
似(に)もつかずたゞ苦(くる)しさに面(おもて)のみ。土(つち)に衝入(つきい)れたりと見え。こゝのみは燔残(やけのこ)り。鮮(あざやか)
なればわが女児(むすめ)と。知(し)りてはいよ〳〵|哀(かな)しさの。何(なに)に喩(たと)へんやうもなく。同(おな)し道(みち)
にと悲(かな)しみしを。人〻(ひと〴〵)に諌(いさ)められ。死骸(しがい)を野辺送(のべおく)りせしとなん
評していはく天道(てんだう)は。善(ぜん)に福(さいは)ひし。悪(あく)に禍(わざは)ひす。と然(しか)るにこの女子災(ぢよしさい)
阨(やく)に遭(あ)ひて。生(いき)ながらその身(み)を燔(やか)る。かゝる危急(ききふ)の時節(じせつ)に及(およ)び。
猶(なほ)父母(ふぼ)のうへを忘(わす)れず。親友(しんいう)に託(たく)して死(し)を潔(いさぎよ)くす。かゝる志操(しさう)あり
といへども。非命(ひめい)に死(し)するを免(まぬ)かれず。仏家(ぶつか)に所謂(いはゆる)宿業(しゆくごふ)とは。
これらのことをいふにやあらん
○卑賤(ひせん)の老夫(らうふ)天変(てんへん)を知(し)るの条(くだり)
こに二三千|石(ごく)を領(りやう)する家(いへ)あり。その門番(もんばん)なる老夫(おやぢ)ありて。年来(としごろ)老(まめ)
実(やか)に仕(つか)へける。元来(もとより)卑賤(ひせん)にして文学(もんがく)もあらず。尋常(よのつね)の叟(おきな)なりしが。
十月二日の薄暮(はくぼ)に至(いた)り。門外(もんぐわい)に出(いで)て四方(よも)を瞻望(ながめ)。たちまちに内(うち)に入(いり)
その同僚(なかま)に示(しめ)していはく。今宵(こよひ)かならず地震(ぢしん)ありて。その動揺(どうえう)は
げしからん。家(いへ)に居(お)らば怪我(けが)あるべし。兼(かね)て用心(ようじん)をなすに若(しか)ず。其(その)用
心(じん)とは他(ほか)ならず。第一(だいゝち)に食物(しよくもつ)なりとて。暴(にはか)に少(すこ)しの米(こめ)を炊(かし)き。勝(かつ)
手(て)に入(い)りてこれを焚(た)く。同僚(なかま)は聞(きい)て緒共(もろとも)に。米を炊き焚(たく)もあり。
頓(やが)て老夫(おやぢ)は荘内(やしきうち)を馳(はせ)まはりて人〻(ひと〴〵)に。そのよしを告(つげ)けるにこれを信(しん)
ずる者(もの)もあり。また彼(かの)老夫|何(なに)をか知(し)らん。それ天変(てんへん)地妖(ちえう)のごとき賢人(けんじん)
君子(くんし)も知(し)ること難(かた)し。況(いはん)やかの老夫をや。思(おも)ふに狐狸(こり)に変詐(たぶらか)されて。
かゝる譫語(たはこと)をいふものならん。と多(おほ)く嘲(あざけ)り譏(そし)りけり。老夫は飯(はん)を焚(たき)終(をは)
り。これを少(ちひ)さき櫃(ひつ)に入(い)れ。味噌香(みそかう)の物(もの)など取添(とりそ)へ。裏(うら)の方(かた)なる馬(ば)