翻刻
【上段】
《割書:風俗画報臨時増|刊第百十八号》海嘯被害録上編
●緒言
緑樹昼暗くして。家々煙雨の空濛たるは。従来黄梅の時節に於
て。見る所の現象なるに。本年は点滴を聞くこと稀に青草池塘
の蛙声殆と将に渇せむとす。加ふるに東京湾の硥魚。痴なるが
如く。容易に身を漁夫の銛頭に委すと。白頭の人相話して災異
の臻らむことを恐れしに。果せる哉。六月の十六日。東海岸よ
り。悲惨なる電信は陸続として飛来せり。乃ち東京の現象は。
其の余響たりしを知る。凶報に拠れは。宮城岩手県等沿岸の諸
道に。大海嘯ありて。人畜の死亡無算なりと。一電は一電より
も惨に。人をして覚えす肌膚生粟の感あらしむ。是に於て官民
共に人を派して。各〻其の実況を探り。
皇室に於せられては。直ちに侍従を遣発し給ひ。救恤資金を下
賜あらせらるゝに至れり。嗚呼傷しきかな。数丈の狂瀾怒濤。
突然地を捲て襲ひ来り。市街を呑み。家屋を奪ひ。人畜草木悉
皆浸し将ちて去り。亦一点影を留めず。其の幸に万死を出たる
者も。父母を喪ひ妻子に離れ。昨日まで住居せし房室は。跡な
くして砂磧茫漠の荒野に変し。家産蕩尽して片碟残皿も獲るに
由なく。或は暴漲を避るの際。其の身負傷して流血淋漓。一家
の遺骸を尋ること能はす。空しく一領の濡衣を纏ひて。海浜に
呻吟し。昊天に号泣して飢餓に瀕する者あり。其の惨状実に意
想外に在りといふ。是れ近世の一大災異といはざるべからず。
幸に地方官早く已に倉を発きて之を賑恤し。人民も亦義捐して
其の急を救ふありと雖も。回復は容易の業にあらず。因て本堂
は曩年発兌せる震災失火の記事と同しく。其の実況を記述し。
其の実状を図画して。爰に一冊と為し。臨時に発兌して。此の
【下段】
非常なる天災を吊慰し。兼て明治歴史の材料を作り。以て風俗
画報の面目を全ふせむとす。余は素より碁子を敲きて灯花を落
すの間ある者にあらず。偏に其の惨状を悲しむの余り。急に燭
を剪りて諸言を草す。 山下重民識
○論説
●三陸海嘯の惨毒 野口勝一
目に天下の惨事を見耳に天下の惨事を聞き種々の惨事を閲歴し
来ると雖も近世に於ては未嘗て今回陸前陸中陸奥の間に生した
る海嘯の如く其惨毒の甚しきものはあらざるべし元来人世に惨
禍を為すものは地震火災洪水大風の如きは天災となし又別に流
行病兵乱の如き人を殺す甚しきものあり是皆惨毒の極なりと雖
も大抵其区域に限りあり数十里に跨り数万人を殺すが如きは実
に希有に属す三陸海嘯の如きは延袤凡そ五六十里殺人幾と二万
人実に洪水なる災変と謂はざるべからず
災変の大なるものを数ふれば人必ず天明年間江戸大洪水又安政
年間江戸大地震又同年間江戸大流行病を挙く此時の死人は或は
百万と記す書あり然とも往時戸籍法の整はさる統計学の開けさ
る其果して此の如き数に上るか或は百分の一にも満たさるか否
やは今より知るを得ず大都会の間非常の災変に際し死人の多き
は疑ふへかす即ち数万の死人ありとするも是より以来は何の災
変か三陸今回の海嘯と比擬すへきものを見聞せさるなり抑々三
陸の災は実に安政以後の大変と称すへきものなり
嗚呼三陸海辺の民は何たる不幸ぞや何の因縁か斯る惨毒を被り
たるか天道果して悪を懲らすものとするか三陸二万の男女は豈
悉く悪人の集合とするか天道果して善に幸とするか三陸二万の