翻刻
【右丁】
代太橋(たいたはし)
【枠外】 三ノ百五十二
【左丁】
鬼子母神(きしもしん) 下高井戸(しもたかゐと)の道(みち)清月山(せいけつさん)覚蔵寺(かくさうし)といへる日蓮宗(にちれんしう)の
寺(てら)に安置(あんち)す鬼子母神(きしもしん)の霊像(れいさう)は宗祖大士(しうそたいし)の作(さく)にして仏(ふつ)
像(さう)の脊(せ)に建長(けんちやう)五年癸丑八月八日 日蓮刻之(にちれんこれをきさむ)とあり
《割書:縁起曰(えんきにいはく)文永(ふんえい)八年九月十二日 日蓮(にちれん)大士 相州(さうしう)龍口(たつのくち)において誅(ちう)に伏(ふく)さんとせられ|給ひし頃(ころ)一人の老女(らうちよ)ありて胡麻(こま)の餅(もち)を供養(くやう)せり大士 歓喜(くわんき)のあまり建長(けんちやう)|五年の夏(なつ)始(はしめ)て妙法蓮花経(みやうほふれんけきやう)の首題(しゆたい)を唱(とな)へ始(はし)め給ひし時 広宣流布(くわうせんるふ)の祈願(きくわん)の|為(ため)自(みつから)彫造(てうさう)ありし法流守護(はうりうしゆこ)の鬼子母神(きしもしん)の霊像(れいさう)を彼(かの)老女(らうちよ)に授与(しゆよ)し給ふ然(しかる)に|鎌倉(かまくら)福田村(ふくたむら)といへる地(ち)に安田武左衛門(やすたふさゑもん)といへる農民(のうみん)あり則(すなはち)老女(らうちよ)か裔(えい)にして家(いへ)に|此(この)霊像(れいさう)を傳(つた)ふ時(とき)に享保(きやうほ)十八年癸丑五月 此(この)尊像(そんさう)俗家(そくか)にありて法味(ほふみ)に乏(とほ)し|きか故(ゆゑ)に出家(しゆつけ)の許(もと)に贈(おく)るへき旨(むね)霊尓(れいし)あり依(よつて)当寺(たうし)第(たい)十世の住侶(ちゆうりよ)日曜師(にちようし)|鎌倉(かまくら)松葉谷(まつはかやつ)妙法寺(みやうほふし)に在(いま)せし頃(ころ)彼(かの)武(ふ)左衛門 此(この)尊像(そんさう)を携(たつさ)へ来(きた)り来由(らいゆ)を告(つけ)て|日曜師(にちようし)に附属(ふそく)せり然(しかる)に日曜師(にちようし)当寺(たうし)の破壊(はゑ)を歎(なけ)き寺院(しゐん)再興(さいこう)の為(ため)爰(ここ)に移(い)|住(ちゆう)せられし頃(ころ)当寺(たうし)へ遷(うつ)しまゐらせしと云々》
布多里(ふたのさと) 今(いま)所謂(いはゆる)布田邑(ふたむら)是(これ)なり《割書:布田(ふた)或(あるひは)布多(ふた)に作(つく)る此地(このち)布多天神社(ふたてんしんのやしろ)の|御制札(こせいさつ)には補陀郷(ふたのかう)とあり》
此地(このち)は甲州街道(かうしうかいたう)にして上下(かみしも)と分(わか)れたり《割書:石原(いしはら)上下 国領(こくりやう)等(とう)を合(あはせ)て|布田五宿(ふたこしゆく)と称(とな)ふ》
武蔵国風土記曰 多磨郡
爾布田或新田公穀三百七十二束三字田仮粟
二百十三丸三字田
貢薇蕨諸草菜及禽魚等
尓布田川 出鮎鮊鮒等云々