翻刻
【右丁】
城山(しろやま)と呼(よへ)り今(いま)は麦畑(むきはたけ)となるといへとも此所彼所(こゝかしこ)に湟池(ほりいけ)の形(かたち)
残(のこ)れり此地(このち)は往古(そのかみ) 清和帝(せいわてい)の御宇(きよう)蔵宗卿(くらむねきやう)武蔵国司(むさしのこくし)
たりし時(とき)こゝに住(ちゆう)せられたりし旧館(きうくわん)の跡(あと)にして天文(てんふん)の頃(ころ)上杉(うへすき)
朝定(ともさた)の家臣(かしん)難波田弾正忠広宗(なんはたたんしやうのちうひろむね)松山(まつやま)の城(しろ)の出張(てはり)としてこゝに
城廓(しやうくわく)を搆(かま)へたりしと也
《割書:北条五代記曰(ほうてうこたいきにいは)く上杉修理太夫朝興(うへすきしゆりのたいふともおき)の嫡男(ちやくなん)五郎朝定(こらうともさた)生年十三 歳(さい)にして家(いへ)を|継(つく)武州(ふしう)深大寺(しんたいし)といへる古城(こしやう)を再興(さいこう)し北条氏綱(ほうてううちつな)に向(むか)ひ弓矢(ゆみや)の企(くはたて)専(もつは)らなり|といへる条下(てうか)に《割書:此軍は天文六年|七月廿日なり》されはたけき中(うち)にやさしきありその日(ひ)のいくさ大将(たいしやう)|難波田(なんはた)あやなくうしろを見せ松山(まつやま)さして落行(おちゆく)を北条方(ほうてうかた)に山中主膳(やまなかしゆせん)駒(こま)かけ|よせ一首(いつしゆ)はかくそきこえける| あしからしよかれとてこそたゝかはめなと難波田のくつれ行らむ|と俳諧躰(はいかいてい)によみかけしに難波田(なんはた)もさすかよしある武士(ものゝふ)にてくつはみいさゝか引(ひき)かへし| 君を置てあたし心を我もたは末の松山浪もこえなむ|我(われ)作(つく)りかほに古今集(こきんしふ)の哥(うた)をとりあはせて返答([へ]んたふ)ありていそかはしく駒(こま)のあしはやめて|過行(すきゆき)ぬけにさもありぬへし主君(しゆくん)朝定(ともさた)を館(やかた)に残(のこ)し置(おき)難波田(なんはた)かたれなは松山(まつやま)は寄(よ)せくる|浪(なみ)もこえぬへし身(み)を全(まつたふ)して君(きみ)につかふるを忠臣(ちゆうしん)の法(はふ)といふ事あり作者(さくしや)といひ功者(かうしや)といひ|かけひきしれる勇者(いうしや)とそみな人申はへりき云々》
深大寺城跡(しんたいしのしろあと) 深大寺(しんたいし)仏堂(ふつたう)の後(うしろ)の方(かた)の山続(やまつゝき)にして其間(そのあひた)六七丁を
隔(へたて)たり空堀(からほり)或(あるひ)は柵門抔(さくもんなと)ありしと覚(おほ)しき形(かたち)今猶(いまなほ)厳然(けんせん)たり
【枠外】 三ノ百六十二
【左丁】
北条五代記(ほうてうこたいき)に大永(たいえい)四年の頃(ころ)氏綱(うちつな)江戸(えと)の城(しろ)を襲(おそ)ふ上杉(うへすき)
匠作(しやうさく)はいまた河越(かはこえ)の城(しろ)に引篭(ひきこも)り十 余年(よねん)の春秋(しゆんしゆう)を送(おく)り迎(むか)へ
ぬいつよりか例(れい)ならす心(こゝ)ちそこなひて天文(てんふん)六年の卯月(うつき)下旬(けしゆん)
世(よ)を早(はや)く去(さつ)て嫡男(ちやくなん)五郎朝定(こらうともさた)生年十三 歳(さい)にして家(いへ)を継(つき)
給ひぬていれは七々ヶ日の服忌(ふくき)さへ経(へ)すして道(みち)をあらため兵(へい)を
起(おこ)し深大寺(しんたいし)といふ古城(こしやう)を再興(さいこう)し氏綱(うちつな)へ向(むかひ)て弓矢(ゆみや)の企(くはたて)専(もつは)ら
なりとあるは則(すなはち)此所(このところ)の事(こと)なり
医王山(ゐわうさん)国分寺(こくふんし) 最勝院(さいしようゐん)と号(かうす)国分寺村(こくふんしむら)にあり府中(ふちゆう)より北(きた)の
方(かた)十八町を隔(へた)つ当寺(たうし)は天平年間(てんへいねんかん)行基菩薩(きやうきほさつ)草創(さう〳〵)する所(ところ)に
して 聖武天皇(しやうむてんわう)の勅願所(ちよくくわんしよ)なり中開山興(ちゆうこうかいさん)を教心阿闍梨(きやうしんあしやり)と号(かうす)
今(いま)は新義(しんき)の真言宗(しんこんしう)なり
薬師堂(やくしたう) 本尊(ほんそん)薬師如来(やくしによらい)《割書:脇士(けうし)日光(につくわう)月光(くわつくわう)十二 神将(しんしやう)の像(さう)は共(とも)に|開山(かいさん)行基大士(きやうきたいし)の作(さく)なり》
額(かく)《割書:金光明四天(きんくわうみやうしてん)|王護国(わうここく)之寺》深見玄岱筆(ふかみけんたいのふて)