翻刻
【右丁】
遊賞(いうしやう)せり《割書:高(たか)さ三丈はかりめくり|五十 歩(ほ)あまりあり》
阿弥陀坂(あみたさか) 富士見塚(ふしみつか)より十三町あまりを隔(へた)てゝ《振り仮名:恋ゕ漥村|こひ くほむら》の地(ち)北(きた)へ
向(むか)ひて下(くた)る坂(さか)を云(いふ)此坂(このさか)の左(ひたり)に傍(そひ)たる岡(おか)に草庵(さうあん)あり土人(としん)阿弥(あみ)
陀堂(たたう)と称(しよう)す木像(もくさう)の阿弥陀如来(あみたによらい)を本尊(ほんそん)とす《割書:延享(えんきやう)四年 鶴心(くわくしん)と云(いふ)僧(さう)|此(この)草庵(さうあん)の廃(すたれ)たるを興(おこ)す》
土人云(としんいふ)古(いにしへ)の本尊(ほんそん)は銅像(とうさう)にして今(いま)府中六所宮(ふちゆうろくしよのみや)の社地(しやち)にあるもの
是(これ)なりと相傳(あひつた)ふ往古(そのかみ)畠山庄司次郎重忠(はたけやましやうししらうしけたゝ)此地(このち)《振り仮名:恋ゕ窪|こひ くほ》の駅舎(えきしや)に
やとりし頃(ころ)寵愛(ちやうあい)せし遊君(いうくん)ありしか重忠(しけたゝ)平家追討(へいけつゐはつ)につきて西国(さいこく)へ
出陣(しゆつちん)せらる然(しかる)に其後(そののち)をこのものありて重忠(しけたゝ)討死(うちしに)したる由(よし)いつ
はりすかしたりしを実(まこと)としかの遊君(いうくん)歎(なけ)きのあまり終(つひ)に自殺(しさつ)し
たりしを後(のち)重忠(しけたゝ)聞(きゝ)てあはれと彼(かの)遊君(いうくん)か節操(せつさう)を感(かん)し菩提(ほたい)の
為(ため)に此(この)阿弥陀堂(あみたたう)建立(こんりふ)し銕(てつ)を以(もつ)て弥陀如来(みたによらい)の像(さう)を鋳(ゐ)て安置(あんち)
せしといふ《割書:因(ちなみ)に云(いふ)此地(このち)に道場畑(たうちやうはた)と字(あさな)する地(ち)あり土人(としん)云むかし此地(このち)に無量山(むりやうさん)|道成寺(たうしやうし)と号(かう)する寺院(しゐん)ありし故(ゆゑ)にしか昌(とな)ふるとそしかるときは此(この)》
《割書:阿弥陀堂(あみたたう)も其(その)境内(けいたい)にありしものなるへき歟(か)又云(またいふ)今(いま)府中六所宮(ふちゆうろくしよのみや)の社地(しやち)に|ある所(ところ)の銕像(てつさう)の弥陀佛(みたふつ)は重忠(しけたゝ)愛(あい)せし遊君(いうくん)の菩提(ほたい)の為(ため)造立(さうりふ)する所(ところ)の佛躰(ふつたい)》
【枠外】 三ノ百六十八百六十九
【左丁】
《割書:なりといへとも其(その)仏像(ふつさう)の銘文(めいふん)年号(ねんかう)等(とう)を考(かんか)ふれは重忠(しけたゝ)とは時世(しせい)大(おほい)に違(たか)ひ|誤(あやまり)なる事 明(あき)らけし猶(なほ)六所宮(ろくしよのみや)の条下(てうか)をみるへし》
《振り仮名:恋ゕ窪|こひ くほ》 同所 坂(さか)より下(した)の低(ひく)き地(ち)をいふ古(いにし)へ東奥(とうあう)北越(ほくえつ)等の国々(くに〳〵)より
京師(けいし)及(およ)ひ鎌倉(かまくら)等へ至(いた)るの駅路(うまやち)にて其頃(そのころ)は遊女(いうちよ)の家居(いへゐ)なと
ありていとにきはしかりしとなり《割書:此地(このち)に牛頭天王(こつてんわう)の叢祠(さうし)あり竹林(ちくりん)の|中(うち)に凹(くほか)なる地(ち)あるを古(いにし)への北国街道(ほつこくかいたう)の》
《割書:旧址(きうし)なりといへり》
《割書:四国雑記 《振り仮名:恋ゕ窪|こひ くほ》といへる所(ところ)にて| 朽はてぬ名のみ残れる恋か窪今はたとふもちきりならすや 道興准后》
《振り仮名:傾城ゕ松|けいせい まつ》 同所 艮(うしとら)の方(かた)八幡宮(はちまんくう)の社地(しやち)にあり同(おな)し程(ほと)の古松(こしよう)二株(ふちゆう)
雙立(さうりふ)せり土人(としん)重忠(しけたゝ)か愛(あい)せし遊君(いうくん)の塚印(つかしるし)の松(まつ)なりといひ伝(つた)ふ
然(しか)れとも社地(しやち)なるものは此(この)八幡宮(はちまんくう)の神樹(しんしゆ)なるへし
武蔵野(むさしの) 南(みなみ)は多摩川(たまかは)北(きた)は荒川(あらかは)東(ひかし)は隅田川(すみたかは)西(にし)は大嶽(たいかく)秩父根(ちゝふね)を
限(かきり)として多磨(たま)橘樹(たちはな)都筑(つつき)荏原(えはら)豊島(としま)足立(あたち)新座(にひくら)高麗(こま)比企(ひき)入間(いるま)
等(とう)すへて十 郡(くん)に跨(またか)る草(くさ)より出(いて)て草(くさ)に入(いる)又(また)草(くさ)の枕(まくら)に旅寝(たひね)の
日数(ひかす)を忘(わす)れ問(とふ)へき里(さと)の遥(はるか)なり杯(なと)代々(よゝ)の哥人(かしん)袂(たもと)をしほりしか