翻刻
みれば玄宗(げんそう)落(おち)給ふ跡(あと)は芙蓉苑(ふようえん)の御(お)なり御殿(ごてん)もたてこめ細柳(さいりう)新蒲(しんほ)心なき
ものは誰(たれ)もてはやさね共 春(はる)を忘(わす)れぬ去年(きよねん)迄 玄宗(げんそう)御幸(みゆき)あれば苑中(えんちう)の万物(ばんもつ)まで
色香(いろか)をまし顔色(がんしよく)を生(しやう)じた霓旌(げいせい)は帝(みかど)のはた也 第(だい)一人は楊貴妃(やうきひ)昭陽殿(せうやうでん)は
女中(ぢよちう)の居所(ゐどころ)昔(むかし)漢(かん)の昭陽(せうやう)の飛燕(ひえん)は漢宮(かんきう)第(だい)一と云が南苑(なんえん)へ御幸(みゆき)の折(をり)御 気(き)に入の
楊貴妃(やうきひ)御 側(そば)をはなれず輦(てぐるま)を同(おなし)く御 寵愛(てうあい)に預(あづかつ)た玄宗(げんそう)は才人(さいじん)女官(によくわん)を男出立(をとこしたて)に
こしらへ皆(みな)弓箭(ゆみや)を帯(たい)しかざり立(たて)た馬(うま)にのり御 輿(こし)の先(さき)へ立(たち)ならんで通(とを)る是(これ)
御 物(もの)ずき故也 白馬(はくば)金轡(きんび)はな〴〵しく馬(うま)もくつばみをかみいさめば女官(によくわん)天(てん)を仰(あふひ)で雲(くも)
をめがけ一 矢(や)に二 疋(ひき)つゝ射(い)て落(おと)す男(をとこ)まさり上手(じやうず)じや眼(め)もと口(くち)もとすぐれたる美人(びじん)
今いづくにあるや楊貴妃(やうきひ)も馬嵬(ばくわい)が原(はら)にて殺(ころ)され血(ち)が其処をけがした遊魂(ゆうこん)も其
辺(あたり)にうろついて在(ある)ならん渭水(ゐすゐ)は西(にし)より東(ひがし)へ流(なが)るゝ剣閣(けんかく)は蜀(しよく)の山(やま)ふかくとぢ通(つう)
路(ろ)もなく蜀(しよく)の内(うち)でも一向(いつかう)消息(おとづれ)の便(たより)なくあさましいさまじや人生(じんせい)情(じやう)ある者 涙(なみだ)がむね
をうるほす江水(かうすゐ)江花(かうくわ)はいつ見ても見やむこともないがそれからみればいかい違(ちがひ)しや黄(たそ)
昏(がれ)までうろ〳〵思たりながめしたりする内に安禄山方(あんろくさんがた)の胡人(こひと)共 塵(ちり)をたてゝ都中(みやこぢう)
をかけ廻(まわ)るをさけやうと思(おも)へば城中(じやうちう)に忍で居(ゐ)る者も南北(なんぼく)を忘(わす)れ道(みち)にまよふ