翻刻
づき。喃(なう)父母(ちゝはゝ)よ無事(ぶじ)にして居(ゐ)給ひしこそ嬉(うれ)しけれ。と涙(なみだ)し歓(よろこ)びつゝ。
知(し)れる人の許(もと)にゆき。戸(と)一枚(いちまい)と畳(たゝみ)を借(か)りうけ。これを敷(し)きて父母を
載(の)せ。まづ是(これ)にて安堵(あんど)せり。とかの伴(ともな)ひ出たる人をも。索(たづ)ねて厚(あつ)く恩(おん)を謝(しや)し。
なほ傍(ほと)りを去(さり)やらず。半時(はんとき)ばかり在(あ)りけるが。稍(しだい)に夜(よ)ふけて肌寒(はださむ)き
に。心著(こゝっろづ)きて老父母の。さぞかし寒(さむ)く在(おは)すらん。とそれより再(ふたゝ)び父母が
住居(すまゐ)し。家(いへ)に到(いた)り辛(からふ)じて。漸(やうや)く横(よぎ)一ッを取出し肩(かた)にかけて出るとき。その
弟(をとゝ)に出|会(あひ)て。如此〻〻(しか〴〵)のよしを告(つ)ぐ。その弟は兄(あに)よりも。その住居|遠(とほ)け
れば。遅(おそ)くなりたるよしを陪礼(わぶる)。さて諸共(もろとも)に広小路なる。父母の許(もと)に往(ゆき)。
まづその無事(ぶじ)を祝(しゆく)しけるが。この弟は予(かね)てより。家別(いへわか)れして妻子(さいし)あり。
殊(こと)にその所(ところ)も地震(ぢしん)つよく家居(いへゐ)はみな崩(くづ)れ潰(つぶ)れ。たゞ無事(ぶじ)なるを
とり所(ところ)にて道路(だうろ)に呻吟(さまよひ)ありと聞(きゝ)。父母のためには嫁(よめ)と孫(まご)の。身の
上(うへ)だに案(あん)じつゝ。你(な)は頓(とく)ゆきて稚(をさな)きものゝ。身のうへを計(はか)らへよ。吾〻(われ〳〵)はこゝに
ありて、殊(こと)に兄(あに)の傅副(つきそひ)あれば。いさゝか心(こゝろ)おくことなし。と兄(あに)も共〻(とも〴〵)に勧(すゝむ)る
にぞ。さはとて弟(をとゝ)はこゝを去る。兄(あに)は終夜(よもすがら)父母(ちゝはゝ)の。傍(ほと)りを護(まも)りて離(はな)ること
なし。程(ほど)なくその夜も明(あけ)はなれしに。たゞ一椀(いつわん)の飯(いひ)もなし。こゝに於(おい)て始(はじ)め
て心(こゝろ)づき。僅(わづか)ばかりの銭(ぜに)ありしが。この騒動(さうどう)に心|急(せか)れ懐(ふところ)へ納(おさ)めもやらず。駈(かけ)
出て後(のち)はわが家(いへ)を。顧(かへりみ)るいとまもあらず。父母(ふぼ)の傍(ほとり)りを離(はな)れじ。と一向(ひたぶる)に
念(ねん)じたりしか。今(いま)おもへば夜の間に戻(もど)りて。かの銭(ぜに)たにもて来(く)べきを。鈍(おぞ)きこと
なしてげり。思ふに今は失(うせ)つらん。さはいへ他(ほか)に手段(しゆだん)なし。まづ立戻(たちもど)りて有無(うむ)
を知らん。とこのよしを父母に告(つげ)。立戻(たちもど)りてわが家(や)を見るに。この辺(へん)は火災(くわさい)もあ
らず。殊(こと)に震(しん)も緩柔(ゆるし)と見えて。檐場(のきば)いさゝか傾(かたふ)きたるのみ。家(いへ)の崩(くづ)れし
にあらざれば。立ち入りてこれを見るに。宵(よひ)に出にし時(とき)のまゝにて何一ッ失(う)せ