翻刻
かく流浪(るろう)の身(み)となりて。詮方(せんかた)なければ主家(しゆか)に在(あ)りし日|覚(おぼ)えたる菓子(くわし)
を製(せい)して僅(わづか)ばかりを袱(ふろしき)に裹(つゝ)み。知音(しるべ)の方に持(もち)ゆきて。価(あたひ)を卑(やす)く鬻(ひさ)きつゝ
聊(いさゝか)の徳分(とくぶん)を得(え)てその日〳〵を営(いとな)みけるが。その父母(ふぼ)は老僻(らうへき)にて人の多(おほ)く
出入るを嫌(きら)ひ。日来(ひごろ)右(と)に左(かく)いふほどにこの男もこのことを心(こゝろ)憂(う)く思ひつゝ
別(べつ)にさゝやかなる家を借(か)り一人|住(ずみ)にて菓子(くわし)を製(せい)し売(うり)ありきて父母(ちゝはゝ)に
は不自由(ふじゆう)なきやうに心(こころ)を著(つ)けその弟(をとゝ)と相計(あひはか)りて。老父母(らうふぼ)を養(やしな)ひける。
然(しか)るにこの夜(よ)地震(ぢしん)にて近辺(きんへん)多(おほ)く家|潰(つぶ)れ。老若男女(らうにやくなんによ)圧(おさ)れ死(し)しぬ。と
口〻(くち〴〵)にいふを聞(きゝ)。心(こゝろ)も空(そら)に惑(まど)ひ出(いで)て。かの父母(ふぼ)が居所(きよしよ)へゆくにこの辺(へん)すべて大
に潰(つぶ)れ足を入るべきやうもなし。偖(さて)こそ父母(ふぼ)は年老(としおい)て足手だに弱(よわ)け
れば。定めて梁(はり)の下に埋(うづ)もれけん。と胸躍(むねをど)り泣悲(なきかな)しみて。崩(くづ)れし家を
掻除(かきの)け乗(のり)越(こ)え。漸〻(やう〳〵)にして其処(そこ)へ到(いた)るに案(あん)のごとく柱(はしら)摧(くじ)け。棟(むなぎ)おちて檐(のき)
は地(ち)にあり。偖(さて)はと心(こゝろ)もならず膂力(ちから)に任(まか)し木をとり除(の)け。家(いへ)の裡(うち)を
のぞきつゝ|声(こゑ)をあげて呼立(よびたつ)れど。さらに答(こた)ふる声もなくまた人ありと
しも見えず。かくては逸早(いちはや)くこの所(ところ)を逃出(にげいで)しものなる歟(か)。と霎時(しばし)汋湛(たゆたひ)
ありける所へ。火(ひ)の廻(まは)りとして弓張(ゆみはり)の。挑灯(ちやうちん)を照(てら)しつゝ。二三人|来(く)る者(もの)あり
かの男は声かけて。この家(や)に住(すみ)し老夫婦(らうふうふ)何方(いづく)へかたち退(のき)し。おん身等(みら)
知(し)りておはするや。と問(と)へば火(ひ)の廻(まは)りの男|答(こた)へて。嚮(さき)にそれ地震(ぢしん)といふ
ほどに。老夫婦のたち出しを長屋(ながや)なる甲乙(たれかれ)が。手(て)を携(たづさ)えて諸(もろ)ともに
両国橋(ふたくにばし)の方(かた)へ逃(にげ)たり。されば大かた怪我(けが)はあらじ彼処(かしこ)を索(たづ)ね給へと
いふ。彼(かの)男は聞(きく)もあへず偖(さて)は助(たす)かり給ひしかと掌(て)を合せ天(てん)にむかひ。霎(しば)
時(し)念(ねん)じて立戻(たちもど)り。それより両国橋の辺(ほとり)にゆき。其処(そこ)か此処(こゝ)かとたづぬ
るに。広小路(ひろこうじ)と唱(とな)ふる所に。つゝがなくてありければ。男は見るより躍(をど)り近(ちか)