翻刻
たるものなし。男(をとこ)は大(おほい)に歓(よろこ)びて。銭(ぜに)は懐(ふところ)にし僅(わづか)ばかり。残(のこ)りたる飯(いひ)及び。製(せい)し
さしたる菓子(くわし)までも。籠(かご)に入れて荷(にな)ひゆき。父母(ふぼ)にも進(すゝ)め自身(みづから)も食(く)ひ。
且父母の近隣(きんりん)なる甲乙(たれかれ)にも恵(めぐ)み与(あた)へて。一時(いちじ)の飢(うゑ)を凌(しの)がせけりこれ異(こと)なる
話説(わせつ)にあらず。親(おや)あるもの志(こゝろざ)し。誰〻(たれ〳〵)もかくあるべきなれど。天災不時(てんさいふじ)
の難(なん)あるとき。まづ其後来(そのこうらい)を図(はか)るにより金銀|資財(しざい)を先にして父母を
後にするものあり。この男と懸隔(けんかく)す
因(ちなみ)にいふ天正(てんしやう)の頃(ころ)。何某(なにがし)といへる士人(しじん)あり。重(おも)く登庸(もちひ)られて番頭(ばんとう)を
務(つと)む。然(しか)るに性来(せいらい)金銀を好き。是(これ)を貯(たくは)ふるを心にかけ。折〻(をり〳〵)その
黄金(こがね)を出し。書院(しよゐん)に並(なら)べて多寡(たくわ)を試(こゝろ)み。次第(しだい)に殖(ふゑ)るを楽(たのしみ)とす。ある
ときこの士人|例(れい)のごとく。貯(たくは)ふる黄金を出し。広(ひろ)き書院に布満(しきみち)て一人
満面(まんめん)に笑(ゑみ)を含(ふく)み。限(かぎ)りなき楽(たのし)みとして。これを瞻望(ながめ)ありけるをり
から。人来(ひときた)つて今組下(いまくみした)なる。誰〻(たれ〳〵)仮初(かりそめ)の喧嘩(いさかひ)より。既(すで)に刃傷(にんじやう)に及ばん
とす。頓来(とくきた)りて鎮(しづ)め給へ。と急(きふ)を告(つぐ)るものありけり。その人聞(ひときゝ)て打(うち)
駭(おどろ)き。黄金(こがね)を納むるに暇(いとま)なければ。そのまゝにして走(はせ)ゆきしが。その
事彼是縺(ことかれこれもつ)れあひて。鎮(しづ)めがたくその夜を明(あか)し。翌日(よくじつ)の日中過(ひるすぐ)る頃(ころ)。
やう〳〵|縡(こと)の果(はて)しかば。それより家(いへ)に帰(かへ)りしが。常(つね)に斯(かく)ばかり愛(あい)
する黄金。生憎書院(あやにくしよゐん)へ出せしをり。不慮(ふりよ)に騒(さわ)ぎの始(はじ)まりて。以上(いじやう)
一昼夜其扱(いつちうやそのあつかひ)にて。家(いへ)に帰(かへ)り来(こ)されども。更(さら)にその黄金を念(ねん)とせず。こゝ
に於(おい)て平生〻〻(つね〳〵)より。士人(しじん)にして金銀(きん〴〵)を貯(たくは)ふるを好(この)むはいと陋(いや)し。と
譏(そし)るものも多(おほ)かりしが。這回(このたび)のことにおいて。譏(そし)りしものみな口を箝(つぐ)み。
かくてこそ士人(しじん)の志気(しき)あれ。と人これを感(かん)ずといへり。その事は異(こと)
なれども。その趣(おもむき)は本文(ほんもん)にいふ。菓子売(くわしうり)の男(をとこ)に似たり