翻刻
らず。その葛籠(つゞら)の重(おも)げなる。定(さだ)めてよき物の在(あら)んとおもひ。その疑(うたが)ひを避(さけ)
んため。この褁(つゝ)みをわたしゝなるべし。いと〳〵|鈍(おぞ)き盗人(ぬすびと)と。いへばえにかの葛(つゞ)
籠(ら)には。おん身か夫(をつと)の死骸(しがい)ありとや。後(のち)に開(ひら)きて忌〻(いま〳〵し)さに。溝掘(みぞほり)なンど
へうち込(こま)ば。おん身が着換(きがへ)の衣(きぬ)を捨(すて)て。持出(もちいで)たりし赤心(まこゝろ)も。水(みづ)の沫(あわ)となる
がうたてさ。亦(また)この褁(つゝ)みにかくばかり。大金(たいきん)のあるなれば。これもまた厄(やく)
介(かい)なれど。このまゝには捨(すて)おかれじまづ此よしを訟(うつた)へて。公裁(こうさい)に任(まか)に若(しか)
ず。と衆議(しゆぎ)一決(いつけつ)してその趣(おもむき)を。その筋(すぢ)へ訟(うつた)へけりとぞ。かくて盗人(ぬすびと)はかの
葛籠(つゞら)を負(お)ひ。こゝを逃去(にげさ)りてより後(のち)は。いかに倣(な)しけん事実(じじつ)は知(し)らね
ど鎌倉(かまくら)川岸(がし)の片傍(かたほとり)に。そのまゝ|捨(すて)ておきけるが。葛籠(つゞら)に町名(ちやうみやう)且(かつ)持(もち)
主(ぬし)の。名(な)さへ記(しる)してありければ。夫(それ)をもて所(ところ)の者(もの)。尋(たづ)ね来(きた)りてかの妻(つま)が。往(ゆく)
方(へ)を探(さが)しわたしけり。妻(つま)は夫(おつと)の死骸(しがい)を得(え)て歓(よろこ)ぶこと大(おほ)かたならず。頓(やが)
て菩提院(ぼだいゐん)へ葬(ほうふ)りて慇懃(ねんごろ)に弔(とむら)ひけり。かくて彼(かの)盗人(ぬすびと)の遺金(ゐきん)は全(まつた)く此(この)
女が赤心(まこゝろ)により。神の授(さづ)け給ひしならん。と下し置(おか)れしかばまた歓(よろこ)び
いと〳〵|仏事(ぶつじ)を務(つとめ)しとなん
○
こゝに江都(えど)浅草橋(あさくさばし)の辺(ほとり)に。貧(まづ)しく暮(くら)す鰥夫(やもを)あり。若(わか)きほどは然(しか)るべき
商人(あきびと)の店(みせ)に務(つと)めいと律義(りちぎ)なる者なれば。主人(しゆじん)も二なきものに思(おも)ひ倣(な)せ
しが栄枯(えいこ)得喪(とくさう)は常(つね)のならひ。その主家(しゆか)年〻(とし〴〵)に微禄(びろく)して。逐〻(おひ〳〵)召仕(めしつかふ)
ものに暇(いとま)をとらせ。この男も年来(としごろ)の。奉公(ほうこう)も空(むな)しくなり既(すで)に暇になり
ければ。泣〻(なく〳〵)その家をたち出(いで)て親(おや)の方へ帰(かへ)りけれど。親はこの時(とき)七十
餘(よ)にて元来(もとより)はか〴〵しき活業(なりはひ)なく。主家(しゆか)に務(つと)め在(あ)りし頃より己(おのれ)が
給金(きうきん)は遺(のこ)りなく。みなこの老たる父母(ふぼ)に送(おく)り養(やしな)ひけるほどなる故(ゆゑ)。今