翻刻
帰国(きこく)ありて、翌年(よくねん)中山王(ちうざんわう)も本国(ほんごく)に帰(かへ)ることを得(え)たり、
《割書:系図、旧伝集、政事録、南|浦文集等に据(より)【拠】て記(しる)す》この時(とき)よりして、ながく吾邦(わがくに)の正(せい)
朔(さく)を奉(ほう)じ、聘礼(へいれい)を修(しゆ)して、今(いま)の入貢(じゆこう)の始(はじ)めなり、この後(のち)
将軍(しやうぐん)宣下(せんげ)、若君様(わかぎみさま)御誕生(ごたんじやう)、および彼国(かのくに)中山王(ちうざんわう)継目(つぎめ)の
度毎(たびこと)には、必(かならず)貢使(こうし)かつて闕(かく)ることなし、
慶長(けいちやう)十四年(じふよねん)、琉球(りうきう)征伐(せいばつ)の時(とき)、雨不見の渡(わた)りの中(なか)
ほどにて、容顔(ようがん)美麗(びれい)なる尋常(じんじやう)ならぬ婦人(ふじん)の、小(こ)
舟(ぶね)に乗(の)りて来(きた)り、大将(たいしやう)樺山氏(かばやまうぢ)の舟(ふね)に乗(の)り移(うつ)り
ていへるやう、我(われ)は琉球国(りうきうこく)の守護(しゆご)弁才天女(べんざいてんによ)なり、
この度(たび)征伐(せいばつ)せらるゝに、ねがふところは、多(おほ)くの人民(じんみん)
を殺(ころ)し、国(くに)を悩(なやま)し給ふことなかれ、さあらば我(われ)案内(あんない)し
て、速(すみやか)に琉球国(りうきうこく)を御手(おんて)に属(ぞく)し申すへし、といひ終(をは)
りて坐(ざ)したまふと見れば、そのまゝ木像(もくざう)の弁才(べんさい)
天(てん)なり、さて乗(の)り来(きた)りし舟(ふね)と見えつるは、簀(す)の
板(いた)なりけり、神霊(しんれい)のいちじるしく、国(くに)を護(まも)り給ふ
の厚(あつ)きを感(かん)じ、舟中(ふねのうち)に安置(あんち)し、帰陣(きぢん)の後(のち)、事(こと)の
よしを申し立(た)て、池(いけ)の中(なか)なる島(しま)に祠(ほこら)を建(たて)て、いつ
き祭(まつ)りけるとなり、《割書:旧伝|集》