翻刻
【挿し絵】
総高一丈余
【本文】
採荼庵旧蹟(さいとあんのきうせき) 同所 平野町(ひらのちやう)にあり俳諧師(はいかいし)杉風子(さんふうし)の庵室(あんしつ)なり杉風(さんふう)本国(ほんこく)は
参州(さんしう)にして杉山氏(すきやまうち)なり杉山氏(すきやまうち)なり鯉屋(こひや)と唱(とな)へ大江戸(えと)の小田原町(をたはらちやう)に住(すむ)て魚售(なや)たり
後(のち)隠棲(いんせい)して一元(いちけん)と号(かう)す 《割書:蓑翁(すゐをう)蓑 杖(ちやう)|等(とう)と号(な)あり》 常(つね)に俳諧(はいかい)を好(この)み壇林(たんりん)風(ふう)を慕(した)ひ
のち芭蕉翁(はせををう)を師(し)として此 筵(むしろ)に遊(あそ)ふ事(こと)凡六十年 翁(おきな)常(つね)に興(きよう)せられ
て云く去来(きよらい)は西(にし)三十三 箇国(かこく)杉風(さんふう)は東(ひかし)三十三 箇国(かこく)の俳諧奉行(はいかいふきやう)なり
と 《割書:かはかりこの道(みち)の達人(たつしん)なりしなり杉風(さんふう)一(いつ)に芭蕉庵(はせをあん)の号(な)ありしか後(のち)桃青翁(たうせいをう)にゆつれり其(その)旧地(きうち)は|次(つき)の芭蕉庵(はせをあん)の条下(てうか)に詳(つまひらか)なり享保(きやうほ)十七年壬子六月十三日八十六歳にして没(ほつ)せり西本願寺(にしほんくわんし)の中(うち)成勝寺(しやうしようし)に》
《割書:塔(たふ)す|》
杉風句集 予閑居採荼庵それかかきねに
秋萩をうつしうゑて初秋の風ほのかに
露おきわたしたるゆふへ
白露もこほれぬ萩のうねりかな はせを
このあはれにひかれて
萩うゑてひとり見ならふやま路かな 杉風
時雨
深川は月も時雨る夜かせかな 同
深川にとしくれて
川の音薮の起臥としくれぬ 同
法苑山淨心寺(ほふをむさんしやうしんし) 同し通(とほ)り正覚寺橋(しやうかくしはし)より北(きた)の方(かた)右 側(かは)にあり日蓮宗(にちれんしう)甲斐(かひの)
国(くに)身延山(にほふさん)に属(そく)す乃(すなはち)身延山(みのふさん)の弘通所(くつうしよ)と称(しよう)せり万治(まんち)元年戊戌 創建(さうこん)の
寺院(しゐん)にして開山(かいさん)は通遠院(つうをんゐん)日義上人(にちきしやうにん)と号(かう)す中興(ちゆうこう)は覚成院(かくしやうゐん)日念上人(にちねんしやうにん)
たり本尊(ほんそん)に釈迦如来(しやかによらい)の像(さう)を安(あん)す 《割書:この本尊(ほんそん)は延山(えむさん)の日脱師(にちたつし)より日念(にちねん)上人 授与(しゆよ)|ありて当寺(たうし)にうつしたてまつるとなり》
現代語訳
【挿絵】
総高一丈余
【本文】
採荼庵旧跡 同所平野町にあり、俳諧師杉風子の庵室である。杉風の本国は参州(三河国)で、杉山氏である。鯉屋と名乗り、大江戸の小田原町に住んで魚を商っていた。後に隠棲して一元と号した。《蓑翁、蓑杖等の号もある》常に俳諧を好み、談林風を慕い、後に芭蕉翁を師として、この道に遊ぶこと凡そ六十年。翁(芭蕉)は常に興奮して言うには「去来は西三十三ヶ国、杉風は東三十三ヶ国の俳諧奉行である」と。《これほどこの道の達人だったのである。杉風は一つに芭蕉庵の号があったが、後に桃青翁(芭蕉)に譲った。その旧地は次の芭蕉庵の条下に詳しい。享保十七年壬子六月十三日、八十六歳で没した。西本願寺の中の成勝寺に塔を建てた》
杉風句集 予が閑居採荼庵、それがかきねに
秋萩を移し植えて初秋の風ほのかに
露置きわたしたる夕べ
白露もこぼれぬ萩のうねりかな 芭蕉
このあわれにひかれて
萩植えてひとり見ならう山路かな 杉風
時雨
深川は月も時雨る夜風かな 同
深川に年暮れて
川の音藪の起臥と時雨れぬ 同
法苑山浄心寺 同じ通り正覚寺橋より北の方右側にあり、日蓮宗で甲斐国身延山に属する。すなわち身延山の弘通所と称している。万治元年戊戌創建の寺院で、開山は通遠院日義上人と号する。中興は覚成院日念上人である。本尊に釈迦如来の像を安置する。《この本尊は身延山の日脱師より日念上人に授与があって、当寺に移し奉ったということである》